仏教人生大学
お電話でのお問い合わせ(葬儀24時間電話相談):03-5879-4501
銀座キャンパス
資料請求・お問い合わせ
基本講座
仏教入門講座
聖典講座
教養講座
出張講座
外に出て学ぼう

Home トップページ  >  今日の法話  >  11月4日(水)毎朝のお経と法話の会

11月4日(水)毎朝のお経と法話の会

曽我量深先生の言葉

われわれは生まれながらにして佛の子なんだ。佛の子だけれども佛の子だという名乗りをあげる資格はない。私生子なんだ。私生子は公生子にならなければ完全の人間たることは出来ぬ。親に罪があっても子に罪はないと、いうけれども、親の罪を引き受けて生まれて来たものは。これを宿業という。

上記の「曽我量深先生の言葉」を受けての法話

釈迦弥陀は慈悲の父母
 種種に善巧方便し
 われらが無上の信心を
 発起せしめたまいけり 

           (「高僧和讃」真宗聖典496頁)

※意訳
釈尊と阿弥陀仏は慈悲としての父母である。さまざまなたくみな手だて(方便)で
苦悩の私達にこの上ない純粋感情・信心を開かしめんとして立ち上がって下さったのである。

親鸞聖人のご和讃で「釈迦弥陀は慈悲の父母」とあります。
私達に手が合わさるほどの純粋な感情を開かせるために、常に釈尊とその背景にあたる阿弥陀仏が私達の心と感応しようと促している。

何故、釈尊と阿弥陀仏は私達に「慈悲」の感情でもって、私達の心を動かそうとしているのか。それは常に世間的価値観に惑わされていることから背負う「宿業」に苦しんでいるからである。そこの苦しみから他の人を見失い、自分をも見失い「煩悩悪業」にさいなまれているからである。だからそれだけ私達は日常、世間体にて心が閉鎖されているのである。

これは「無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで」無始以来の人類の歴史の悲しまなければならない「宿業」の問題である。そして今日もその歴史から「宿業」の問題に組み込まれていたかのように背負い迷いを繰り返しているのである。

世間ではその相(すがた)が日常だから本当に悲しむべきことを私達は普段悲しめない。しかし、釈尊と阿弥陀仏からするとその相(すがた)そのものが悲しく目に写っているのである。私達がそこの問題を悲しめない替わりに釈尊と阿弥陀仏が悲しんでいるのである。

釈尊と阿弥陀仏は、普段その問題(宿業に苦しむ・煩悩悪業にさいなまれる)に心が閉鎖されている私達をして、純粋な感情を開かしめんとして常に私達の心を動かそうとしているのである。

私達はそこの問題に涙流さなければならないほどの苦悩を抱えていてのだということを、釈尊と阿弥陀仏の大いなる「慈悲」によって知らされる。

釈尊や阿弥陀仏は私達の苦悩を溶かそうと本当の涙を与えたい(回向)との願いを、大いなる「慈悲」でもって感情を促している。釈尊と阿弥陀仏の私達を見ている感情が、そのまま私達の感情となるところに苦悩が溶けて純粋感情・「信心」が開かれる。

釈尊と阿弥陀仏の「慈悲」は私達の苦悩を溶かす「母体」なのである。

                                                江戸川・本文 僧侶 銀田 琢也

仏教人生大学
資料請求・お問い合わせ
お電話でのお問い合わせ(葬儀24時間電話相談):03-5879-4501
Copyright © 仏教人生大学 All Rights Reserved.

ページトップへ