仏教人生大学
お電話でのお問い合わせ(葬儀24時間電話相談):03-5879-4501
銀座キャンパス
資料請求・お問い合わせ
基本講座
仏教入門講座
聖典講座
教養講座
出張講座
外に出て学ぼう

Home トップページ  >  今日の法話  >  4月29日(金)毎朝のお経と法話の会 (正信偈)

4月29日(金)毎朝のお経と法話の会 (正信偈)

※本日、音声の不具合により動画ではなく文章での法話更新とさせて頂きました。ご了承の程お願い申し上げます。

歎異抄・第一条

“一 弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。そのゆえは、罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえにと云々

本日の歎異抄・第一条 講義文

「他の善も要にあらず」、あるいは「悪をもおそるべからず」というのは、災難や祟りを嫌がって、神さま仏さまを祈る信心ではなくて、善も悪もそういうことに目が覚めるのが、浄土真宗の信心だと示されているわけです。『歎異抄』の第七条に、

>

信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆえに、無碍の一道なりと云々

こういうお言葉があります。天の神・地の神も、その本願を信じる人を尊敬する。悪魔も障げをなすことがない。また業の報いを超える。そういう尊い人生を実は私たちは、すでにいただいていたのだと、そのことに目が覚めて、日々一歩一歩念仏生活させていただく。その内容が「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに」、どれほど罪業が深くとも、弥陀の本願は必ず摂め取って捨てない。世界中の人が自分を見捨てて、自分を仲間はずれにしようと、弥陀の本願だけは絶対に私をお捨てにはならない。弥陀の本願をさまたうるほどの悪はない。ただ弥陀の本願のみ。そういう念仏・本願を依りどころとして生きていく、その人生をいただくということなのです。

(現在に救われる 30頁18行目~32頁12行目)

本日の歎異抄・第一条 講義文を受けての法話 銀田 琢也(江戸川本坊・僧侶)

南無阿弥陀仏

災難や祟りがないようにと神さまや仏さまを祈る。このようなことを一般宗教としては考えがちですが、浄土真宗の信心はそのようなことではない。改めて真実の仏教を頂き直していかねばならないことを『歎異抄』に感じます。

ましてや世界中は都合に合わない人、自分の価値観に合わない人は見捨てられ、自分の思いに適わない自分は、自分で自分を捨ててしまうくらいになる。自分という存在さえも自ら受入れ難いのです。自分の存在よりも抱えている苦悩の方がいかに深いか。この苦悩というのは自分の思いも超えたものだから、自分の存在よりも抱えている苦悩の方が深いのです。だからそのような苦悩の深さこそ災難であり、自らが抱える心の障りなのです。災難や祟りがないようにと祈る以前に、自らがそのような難の存在であるということの悲しみをも見失っているのです。

しかし自分ということを生きている難の有り様、苦悩の深さ、心の障りを悲しく目に写っているのが仏だったのです。その仏は私たちがその悲しみさえも見失っていることを見通しているかのように悲しく見つめているのです。その私たちの姿そのものを悲しみでもって包もうとしたところから捨てられないという感情がおこってきたのです。そして大悲でもって私たちのその悲しい姿に同一視している感情が真実の仏教としての深い歎きとして親鸞聖人は頂いていかれたのです。それが又仏から自分が尊く見つめられているという感動をも頂き、自己の存在をも頂き直していかれたのです。そこから尊いという人生を仏から頂き、自らの苦悩の深さのなかに、仏の深い大悲の声が聞こえねばならない大事な意味を知らされ、聞いていかねばならない教えの道が照らされていかれたのです。だから天の神・地の神も、その本願を信じる道を歩む人を尊敬する。その一筋の歩みには悪魔も障げをなすことがない。また業の報いをも超えていくのでしょう。

南無阿弥陀仏

仏教人生大学
資料請求・お問い合わせ
お電話でのお問い合わせ(葬儀24時間電話相談):03-5879-4501
Copyright © 仏教人生大学 All Rights Reserved.

ページトップへ