正信偈唱和
歎異抄
歎異抄講義(上)・本文
吉蔵の『三論玄義』に、外道とは、人の心を外に向け、そして外のせいにしてしていくものの考え方であるというように考え方であるというように解説されています。ですから、外の姿形が仏教の姿であっても、外道の場合があるということです。中身を問題にしていくと、そういうことになります。つまり、仏教僧侶の格好をしているとか、仏教寺院の形をしているとか、そういうように形が仏教であっても、この世の金儲け、目先の利益、そういうものばかりを求めるための信仰や、祈りは外道であるということです。外側が仏教の姿で内心は外道を尊敬しているというのが、嘆くべき現在の仏教界の在り方であると、きつい言葉ですが、これは親鸞聖人がいっておられます。
五濁増のしるしには この世の道俗ことごとく
外儀は仏教のすがたにて 内心外道に帰敬せり
外側は仏教の姿をしているけれども、貴族にごまをすり、権力者にすり寄って、そして荘園の上がりをもって、それで贅沢な暮らしをしている。祟りよけやおまじないに励んで、また庶民からお金を巻き上げて、それで庶民の本当の救いということ、心の救いというものを何も与えない。そういう現実に対して、外儀は仏教の姿で内心は外道になっているのだと親鸞聖人はいっておられるのです。そういう点から、外道は仏教以外の宗教という説明は不十分な説明だと思います。
(我執にとらわれる外道の教え 192頁15行目~193頁9行目)