トップページ > 今日の法話 > 8月5日(金)毎朝のお経と法話の会 ※夏休み!毎朝お坊さん修行(真宗宗歌・正信偈)※音声の不備により文章での法話更新とさせて頂きます。ご了承の程宜しくお願い致します。
歎異抄・第八条
一 念仏は行者のために、非行非善なり。わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。ひとえに他力にして、自力をはなれたるゆえに、行者のためには非行非善なりと云々
九
本日の歎異抄・第八条 講義文
それで、念仏は行でもないし善でもないといわれるのです。つまり、災いであっても、幸せであっても、念仏は変わらない。災いであっても、幸せであっても、お念仏もうす。折角、祈ったのに、せっかくお参りしたのに災いがあったということ、もう祈ることもお参りもやめますというのが、わがままな考え方です。絵馬というのがありますね。祈りを書いて、神さまや仏さまに祈る。それから護摩というものもあります。密教では、お参りのときに護摩修行というのをします。祈りごとを書いた木を、お寺に納めて、それを真言密教の儀式をしながら火にくべていくわけです。その祈りが不動明王・大日如来に通じて、祈りが達成されるというのです。しかし、いくら護摩修行をしても、事故に遭うときは遭うわけです。
(除災招福を祈るわがままな心 210頁10行目~211頁17行目)
本日の歎異抄・第八条 講義文を受けての法話 銀田 琢也 (江戸川本坊・僧侶)
念仏とは、何かを自発的に信じて幸せを賜る。そのような一般宗教とは違います。
もし何かを自発的に信じて幸せが得るというのなら、信じる対象は神でも仏でなくともいいのです。それなら悪魔でもいいということになります。
災いの一つ交通事故も気をつけない人だけが起こすわけではない。現実には人並み以上に気をつけて車の運転している人でも逆に交通事故を起こしてしまうことはあるのです。
仏は人間を世間的に幸せになった不幸になったかで願いをかけているのではないのです。そのような人間の悲しみを抱えている業の深さを静かに見つめているのです。
一人ひとりの命を抱えている有り様をありのままに見ているのです。これまでの人類の歴史は中には思いもがけないことに若くして終えていかなければならない人もいた。それに思いもがけない形でその別れを悲しんだ人も又やがてはいのちをおわり、なかにはテロや戦争や大地震もあった。その人その人の人生の出遇いの有り様、別れの有り様、何に喜びを感じ、何に涙したのか。そしてどのようにその人その人が命終えていかれたのか。その姿をありのままに見たのです。
たとえその人が自分の人生は失敗だらけのまま悔ゆるまま命を終えていかれたにしても、仏からすると世間的な善し悪しの価値観でその人の命の姿を見てはいけないものが貫いているように見えた。どの人生にも、どの命にも手が合わさるものが貫いているように見えたところから、私たち一人ひとりに願いをかけていたのです。
手が合わさるものが貫いているように見えたということは、それだけ私達の姿に涙を流さざるをえないものを感じたのです。私達の救われようとも救われようない悲しい姿にこそ、仏自らの涙(大悲)でもって包まんとする願いをかけていたのです。
だから念仏は自らの行や自らの善で救いを得るというものではないのです。念仏は元々私達の姿に本当の涙を流す意味を知っている仏からの願いの歎きこそが本当の念仏なのです。そこで私たちも涙流すべきことに涙が仏から与えられて本当に手が合わさることがおこりうるのです。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。