歎異抄・第八条
一 念仏は行者のために、非行非善なり。わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。ひとえに他力にして、自力をはなれたるゆえに、行者のためには非行非善なりと云々
本日の歎異抄・第八条 講義文
そういう息をする体を与えられて、私たちは生まれてきているのです。わがはからいでこの体を持っているわけではありません。私のはからいよりも、もっと大きなはたらきによって、私たちは体をいただいたし、息をするということができるわけです。それでさらに、「わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という」と説かれているのです。
私のはからいで作るという善でもない。では何かというと、弥陀のはからいです。お念仏は弥陀のはたらき、それでこれを他力回向の行という。あるいは、本願力回向の行、このように親鸞聖人は説かれています。この回向という言葉は、めぐらす、向かうということです。それで、阿弥陀仏の本願のはたらきによってふり向けられたというのが本願力回向といます。
(わがはからいにて行ずるにあらざれば 217頁7行目~217頁14行目
本日の歎異抄・第八条 講義文を受けての法話・銀田琢也
わがはからい、が普段私たちの固執感情の発端です。自分の力で何でもやっているように思えて、そうでない人を見るとすぐ見下します。
これを大きく言えば国と国との戦争にもなっていきます。これは小さい大きいの違いなだけで本質として同じです。
自分の力に固執するだけ、他人を見ると見下すような目も持ってしまいがちになる。このようなことからどこまでも救われていかない問題、即ちそのような自分ということからも救われていかない問題を言い当てられるのです。
そのように他人を見る以上に自分をも無意識的に善し悪しという評価をつけて苦しむことになるのです。自分の力に固執するということは、それだけ自分にをも評価をつけて善し悪しをつけて苦しむのです。「○○でなければ本当の自分でない」と自分をも無意識的に責めてしまい、どこまでも想定している自分が遠いのです。
その人間とし生まれた苦しみの深さ、自分ということを生きているならではの救われようのない闇、その果てしなさを仏はすでにしろしめして、私たちの苦悩の深さのところで仏は深い願いとして歎いていたのです。そこに本当の悲しみがあるということを仏が引き代わりになって私たちに歎いていたのです。その歎きを廻向するはたらきを親鸞聖人はこのうえない真実の声として仰いで行かれたのです。
これは他力廻向からの自分への頷きなのです。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。