歎異抄・第三条
一 善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おおせそうらいき。
本日の歎異抄・第三条 講義文
この条のはじめの「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という言葉はあまりにも有名です。それゆえ誤解する人も多いのです。ここにいわれる善人とは、「自力作善のひと」であり、悪人とは、「煩悩具足のわれら」です。どのような修行によっても、生死の迷いを離れることができない煩悩具足のわれらを痛み悲しんで、必ず救おうと願いをおこされたのが、阿弥陀仏の本意であると、親鸞聖人は、本願との出遇うにおいて率直にこの言葉を説かれたのです。
(悪人、もっとも往生の正因なり 93頁13行目~93頁9行目)
本日の歎異抄・第三条 講義文を受けての法話 銀田琢也(江戸川本坊・僧侶)
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
私たちは善人なること、努力することは好きなのです。それが実ったらどれだけ嬉しくて、自分が生きる価値を感じて救われた感覚になるか。だから善人なって救われていきたくて努力するのです。
しかしそこで救われた感覚になっているのも実は真実の救いではなくて「迷い」といい当てられるのでしょう。
自分の思惑では救われたという感覚かもわかりませんが、存在そのものは自分の思惑からどこまでも離れられない迷いの深さを抱えていることを『歎異抄』はいい当てるのでしょう。
たとえそこのところで救われた感覚にはなっていても、実はそれが又逆にこれからの不安を抱える因になっている。その問題を自分に誤魔化そうとするくらいに迷いの深さを抱えているのではないでしょうか。
努力が実らないことも確かに憂いはありますが、努力が実ったところにも、それはそれで憂いを抱えている。それは自分に誤魔化せないくらいの迷いの問題ではないでしょうか。たとえ努力が実って表面上で威張って、表面上で優越感のように見せかけていても、やはりこれからの不安をひそかに抱えているのが本当ではないでしょうか。そうでないように周りの人に虚勢張って優越感のように威張っても、なおも自分に誤魔化そうとしてつらくなります。
どんな人にも実は人間として生まれたならでは迷いの問題はついてまわります。努力が実って喜びはあったとしても、優越感に浸ることはあったとしても、気がついて見たら、その都度その都度の救いでしかなく、これからの人生を支え切る救いにはなっていかない。
やはり迷いの問題を抱えていることは自分にも誤魔化せられないのです。自分の思惑では善人かもわかりませんが、存在としてはどこまでも迷いの果てしなさを抱える悪人なのです。
『歎異抄』は自分ということを生きている迷いの問題を歎く深い書物です。自分の思惑で判断してる自分と存在そのものの自分はこんなに違うのかと気づかされる驚きもあり、改めて自分の姿に気づく頂き直し方があるのです。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏