歎異抄
歎異抄・第六条
一 専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論の 候ふらんこと、もつてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたず 候ふ。そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候はば こそ、弟子にても候はめ。弥陀の御もよほしにあづかつて念仏申し 候ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼のことなり。つ くべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなるることのある をも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざる ものなりなんどといふこと、不可説なり。如来よりたまはりたる信 心を、わがものがほに、とりかへさんと申すにや。かへすがへすも あるべからざることなり。自然のことわりにあひかなはば、仏恩を もしり、また師の恩をもしるべきなりと云々。
本日の歎異抄・第六条 講義文
しかし、日本の場合といいますか、仏教の場合は、「一寸の虫にも五分の魂」という情性があります。小林一茶の、「やれ打つな 蠅が手をする 足をする」という句があります。人間が蠅を叩こうとするときに、蠅が、どうか打たないでくださいといって、手をすったり足をすったりしているというのです。小林一茶は、蠅と自分とのつながりに気づいたわけです。「山河大地ことごとく心がある」と、いわれます。山も川も心を持っている、私が心を持っているのであれば、山も川も心を持っているのだという考え方です。すべて心を持っているもの同士なのだということです。それでも山を切り開かなければいけないというときには、すまないなあという気持ちが起こってくるのです。これをアニミズムという考え方で、物に魂が宿っているというように考えるのは子どもの幼稚な考え方だと批判する人もあります。しかしながら、仏教では、子どものころから持っているそのような感じを大事にするわけです。ですから、家を建てるときに、いろいろな生きものを傷つけてしまうかもしれない、そのことについて、すまないなあという気持ちがある。けれども、なんとか無事に工事をさせてもらいたいということで、一般には地鎮祭を行うわけです。
このような情性が、わが計らい、自我の思いによって失われていくのです。先ほどいった、「一寸の虫にも五分の魂」という情は、わが計らいで勝手に何でもしていいという思いに対して、それで本当に良いのかと問いかけるはたらきがあるわけです。まして人間同士、お互いになぜ、自分の都合だけで、やりたいようにやりあうのか。
(自然の中にいる人間 169頁12行目~170頁7行目)