曽我量深先生の言葉
人間は、如来がなければ何ものも信ぜられない。如来に信ぜられないという確信があるから、私どもは誰に対しても安心して交際できる。自分が一切の人の対して疑いをもたぬ、みずからをおそれぬということであろう。おそれないという心、金剛不壊の心が尊いのであろう。けれども、自分に悲しむということがなければならない。
悲しき愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまず、恥ずべし、傷むべし
「恥ずべし、傷むべし」がなかったら、大変であろう。けれども、おそれることがあってはならない。「悪をもおそるべからず」とはいうが、悪を悲しむということはあろう。
(『真人』一三四号・一一頁-一四頁)
【法話】田中 雄也 僧侶(江戸川・本坊)
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。お早うございます。本日も宜しくお願い致します。
感話ありがとうございました。日頃から「感謝と尊敬にあふれた自分に目覚める」(※證大寺の事業目的)をかかげているのですが中々世間の現実は難しい。誰しもそこに苦悩している。今日も閉鎖社会ならではの娑婆(世間)のなかに皆が埋没しています。
誰とでも安心して交際できるなんてことは家庭から、学校から難しい問題を抱えているのではないでしょうか。現在の環境の問題もあるかもしれませんし、僕の主観かも知れませんが「昔は良かった」とかどの時代もそう回想している。結局同じことを繰り返している。そのような時代時代で今どのような場所にいて「自分は何者か」を追求する。そのことが大切なのですけれども「自覚」は言い訳につかうものではなく、人間として生まれた苦悩や悲しみを抱えていることに気づく。又誰しもが抱えて迷いを繰り返している。この「毎朝のお経と法話の会」にて迷いの心を共有する。そこに尽きることだと思います(「自分に悲しむということがなければならない」『曽我先生 実語抄』)。
そして(證大寺・職員感話の中で出てきた話で)敬いの心が亡くなってきた先生が「敬れない」そういう社会問題、小学校の問題があるのですが、「日頃何に手を合わせているのか」それは人間として生まれた苦悩や悲しみを抱えている我々の姿を、悲しみの眼差しで見つめる仏に手を合わしている。ということを見つめ直し合わせる環境がないといけない。私たちが手が合わせてるところを社会に知っていただく、そして自分から発信させられていくことではないのかと感じました。お釈迦様の遺言で「人に依らず、法に依れ」(「依法不依人」(法に依りて人に依らざれ))。誰が何を説いたかではない。法は何を言わんとしているか。
「この人は何を言っているのか説得力がない」と僕自身も思ったり思われたりしてる。と思うのですが、問題はそうではなくて本当に大切なこと。「法(仏教)は何をいわんとしているのか」そこを聞いていかないと「この人何言ってるんだ、説得力がない」「この人に言われても・・」としていくと勿体ない。どうしてもその心は比べること(世間一般である他人との比較感情)から起こっていくのですが、「この人は何を伝えんとしているのか」と向き合っていくことで、自ずとその人の背景が見えてくる。そして自分のこととして聞こえてくる。そこに頭が下がっていく。何を教えられているのか、自分は何者なのか。仏から悲しまれている存在であることを大切にしていきたいと思います。ありがとうございました。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。