曽我量深先生の言葉
本願成就ということは、一つの願が二つとなって現れて成就して来る。一つの願が一つのままでは成就しない、一つが二つとなって成就して来る。そういうことを御開山聖人が初めて教えて下された。この一つの願が二つになるということは、つまり第十八願が親を見出した。第十八願が親を見出したのが本願成就です。親というのは師主・善知識。善知識は師でもあり、親でもある。「師主」というけれども、詳しくは「師・主・親」師と主と親と、三つの徳を具えておる人を「善知識」という。だから善導大師は「釈迦如来はこれ慈悲の父母」とこの世の中に親はたくさん居るけれども、釈迦如来様こそ、まことの親だ。釈迦如来様こそ久遠劫来から尽未来際かけての慈悲の親であるかといえば、阿弥陀の本願を説かんがためにこの世に現れて下さった。阿弥陀の本願を教えて下さるために出て下されたお方であるとこういうので、それで御開山聖人は、善導大師の深き思召しを明らかににするために阿弥陀如来を加えて
釈迦弥陀は慈悲の父母
種々に善巧方便し
われらが無上の信心を
発起せしめたまいけり
『観無量寿経』では釈迦如来様が「シテ」の位置を占めておられるのが『大無量寿経』に来ると、釈迦如来は「ワキ」に位置が転ずる。『大無量寿経』は阿弥陀如来が直々に自分の本願を説いてわれわれに教えて下さるのであります。
(『曽我量深先生講話集』第一巻・一三三頁)
【法話】 井上 城治 住職(江戸川・本坊)
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。お早うございます。本日も宜しくお願い致します。
感話ありがとうございました。「感話」というのはご本尊の前で自分を打ち出すのが「感話」なんですね。ご本尊は、親鸞聖人は「如来は真実なり」とおっしゃってますので、真実の前で自分は信じて話が出来ますので「オチ」とか要らないですね。
今日は屋根の話とくぼみの話が出ましたけど、これは親鸞聖人がおっしゃている通りだと思います。
貪愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天に覆えり
たとえば、日光の雲霧に覆われども、雲霧の下、
明らかにして闇きなきがごとし。
(『正信偈』真宗聖典204~205頁)
『正信偈』の「貪愛・瞋憎」とあるのは「貪愛」は貪り、欲望です。「瞋憎」とは怒りです。この二つは両方ともにあると仏教では言います。かたっぽ(貪愛)あって、かたっぽ(瞋憎)ない、かたっぽ強く、かたっぽ弱いとは仏教は言いません。何故かというと欲があるということは怒りがあるからのです。欲とは「欲しい」です。子供でいえばものですけど大人の年頃になったら異性に変わったり名誉になったりしますけど、それ適わないとどうなるかというと怒りになるんですね。子供が言うこと聞かないと「何故言うこと聞かないんだ」それくらいですから欲と怒りは山が深く谷が深いのと同じです。それが「雲」だともたとえられます。その雲がいつも覆っていると言うんですね。すかっとした青空になっていかない。すかっとした青空を「真実の信心」と言うとしたら、真実の信心の空だとしたら常に雲が覆っているというんです。曇っている感じ。何かスカッとしなくて気持ち悪いんですけれども「それが人生だ」と先ほどの職員感話でおっしゃるようにそうだと言うんですね。「日光」は欲と怒りの雲に覆われていても雲の下は明るくて雲がないんだ。と『正信偈』に書いてあるんですね。つまり欲が怒りがあるんだと知らせてもらうのが大事なんですね。それを知らせてもらわないと夜みたいなもので雲(欲・怒り)だとかがわかりづらい。かえって光があるお蔭でわかる。そういうことを繰り返し繰り返し自分がわかったつもりだったとかなんですね。仏教のテーマも「本願成就」よりも「汝」なんですよ。最後のところ(本日の「曽我先生 実語抄」輪読の箇所)がわかり易かったんですがお釈迦様が主人公でずっと説いておられたのが「『大無量寿経』に来ると、釈迦如来は「ワキ」に位置が転ずる」」とは何かと言うと私達は自分で話すことばかりなんですよね。受けることが弱いんですね。受けることが間違いないんですよ。「汝」と私達は呼ばれてるんですね。それを「はい」と受けることが大事なんです。私は師匠は三明先生(現・九州大谷短期大学副学長)ですけど、ありがたいことに最近は私はびりっとしてないのであまり指導受けてないんですけれども、打てば響く鐘なので、問題があるとしゃべらないと問題があるとわかりづらいので、顔見ればわかるんでしょうけれども指導してもらいます。「遠慮しないで指導お願いします」と頼んだことあります。人前でたとえば子供の前とかね、人によっては言われるとかっこ悪いこともあるかもしれませんけど、そんなの見てないんです。特に職場内で上司にあたる人がたとえば、さらなる上司から叱られた時に僕は何を見ているかと言うと怒られるところ自体は何も見てないんですよ。怒られることがあるのは誰にもあることですし、期待があるから怒られたりするのですから、それに対する反応しか見てないですね。その時に誤魔化したなとか、スルーしてるなとかあよく見えますでしょ。その時に受け取って先生だったらですよ、若しくは「師・主・親」ですから先生であり親であり若しくはたとえば主である位に思わないと本当は仕えられないですけれども「ありがとうございました」と本当に思った場合おっしゃれば、それしか見てないじゃないですかね。子供なんて単純ですよね。親から怒られる時に怒ってくれた人に言い訳したらアウトですよね。「教えてくれてありがとうございました」本当に思った場合言えばいいんですよね。言えば怒られたことなんてどうでもいいのであって、それしか出来ませんからね。そうすると落ちるところが伝わるんですよね。「カレーライス上手いな」と言ったら、それを聞いた人は行くんですよね。しかし「あそこのカレーライス上手いらしいよ」だったら「お前行け」ですよね。そこのところは受けることしかないですし、とにかく真実の「真」と言う字も同じなんです。自分がわからないから「真」がぐらつくんですってね。自分は何かと言うと「わかってない者だ」と知らせてもらうんですね。そうすると幾らでもわかりますし、そう言うのっていいじゃないですかね。一緒にわかろうですから。私もそう言いながら、そうなってないのはバレバレなんですけど、やはりそれは手を合わせて教え聞く時にわかりますしね。ですからこういう場も大事なんですね。とにかく私は呼ばれてる方なんです。「汝」と呼ばれてる方なんです。返事は「はい」と言う感じなんです。それが教えが入ってくる。だからわかんなくていいんです。わかるリーダーなんて要らないですよ。わからなくていいけど大事なんだと言ってる方がいいじゃないですかね。一緒になってやって行こうという方がいいと思っていて、何といってもお寺なんで仏さまの教えですし、親先祖が伝えてくれた願いですから、わかっちゃったらおしまいですよ。わかっちゃったらおしまいというか受けていけばいいんで、その瞬間わかる。でもわからなくなっちゃうと言う繰り返しがこちらのお寺の「生涯聞法」ですし、そういうところに本当の連帯があると思うんですね。わかんないな。と言える方がいいと思います。どうもありがとうございました。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。