【本文】『歎異抄』 -第七条-
一 念仏者は、無碍の一道なり。そのいわれいかんとならば、信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。罪悪も業報も感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆえに、無碍の一道なりと云々
【解説】 法蔵館『歎異抄講義』上巻・三明智彰著
そうすると、堂々たる道、広々として落ち着いて歩いていける道というのが、無碍の一道ということになるわけです。こういう道を、私たちがいただくのだというのです。
親鸞聖人がこういうことをお話しになった時代は、科学も技術も文明も、何も進んでいない時代です。凶作が続けば、天地の神さまが怒っているのではないかと考えた。病気や悪魔が流行ると、これは悪魔の祟りではないかと、みんなびくびくして、震えて生きていたわけです。そういう中で、真の念仏をする人には、祟りは一切ありません。
念仏者には祟りはない、信心の行者には祟りはないということを、はっきりと説いてくださったのが親鸞聖人なのです。
(我執にとらわれる外道の教え 193頁14行目~194頁1行目)