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10月18日(日)毎朝のお経と法話の会

【本文】『歎異抄』 -第七条-
一 念仏者は、無碍の一道なり。そのいわれいかんとならば、信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。罪悪も業報も感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆえに、無碍の一道なりと云々  

【解説】 法蔵館『歎異抄講義』上巻・三明智彰著

『歎異抄』の第一条に、「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」(真宗聖典六二六頁)と説かれるように、念仏者は阿弥陀仏の光の中に包まれて生活する。ですから、たとえどれほど悪魔が祟りをなそうとしても、阿弥陀仏の光の中に包まれている人にまでは手出しができないのです。どれほど災難があっても、そういうことは仏になる道に一切妨げはありません。

「霊なんかない」といっても、霊の怯えというものを持っている人間がいるのですから、霊はないといくらいっても通じない。もしも霊があったとしても、阿弥陀仏にはかなわないのだと、そういっていくことが大事なところだと思うわけです。浄土真宗は、お札も持ちません。お札を貼れば祟りから逃れられるというようなことで、祈ってもらって、そのお札を柱に貼るということがありますが、そういうことを浄土真宗はする必要がないというのです。なぜか、南無阿弥陀仏が真のお守りをして下さっているからです。

摂取不捨の利益の中に私たちは暮らしていくのですから、お札もいらないのです。お念仏が守ってくださる。そういうことを「魔界・外道も障碍することなし」と説かれるのです。

( 194頁6行目~194頁行目)

上記の『歎異抄講義』上巻・(三明智彰著)・【解説】を受けて
證大寺・僧侶 銀田 琢也

たとえば亡くなられた方を「霊」とする。しかし、それは自分の「思い」で亡き方を迷いの存在として見ている。そのこと自体が「邪見」なのです。自分で亡き方を「霊」として迷いの存在として見る「邪道」という道を歩んでいるのです。やはり「外道」なのでしょう。

これは又「佛」となった亡き方と出遇いなおすことで自らの生きる宿題を与えられるのではなく、亡き方を「霊」として慰めて自らの幸福を手に入れる宗教観です。やはり南無阿弥陀仏をいただいていくという道ではなく、ただ一般的宗教の観念に怯えているのです。だからそのことに怯える心自体が腐敗と化してしまう。

南無阿弥陀仏をいただいていく道を歩む人・念仏者。念仏者は亡き方を過去の人として見るのではなく、これからも「佛」として未来の人として出遇いなおし、これからも手を合わすべく大事な関係が始まっているのです。亡き方と「南無阿弥陀仏」という会話が又始まっているのです。たとえ大事な方が亡くなって悲しくて涙が溢れてたとしても、それは同時に次は亡き方が佛となって呼んで下さっているところからのはたらきです。その涙の中に自分の「思い」や観念が破られ出遇いなおしが活きてはたらいているのです。この心はどこまでも腐敗するものではありません。妨げられるものではありません。やはり「無碍の一道」なのです。

 南無阿弥陀仏

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