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1月22日(金)毎朝のお経と法話の会

※本日音声の不具合により文章にて更新させて頂きます。ご了承の程宜しくお願い致します。
曽我量深先生の言葉本文

本当の平和というものはどういうものかということは外の教えにも書いてありましょうが、『大無量寿経』の三悪段五悪段というものをよく読むとわかってくる。三毒段五悪段というものは俗諦門であると昔からいうが、そんなふうに片づけて、俗諦門は軽いものだ、真諦門は重いと、そういうわけにはゆかぬと思う。俗諦門と真諦門だけでは成り立ちません。また俗諦門だけでも成り立ちません。真諦門と俗諦門を相照らしてゆく。こういうので佛法は昔から成り立っているのであります。だから三毒五悪段を拝読しますというと、初めて人間世界、人間生活、- 人間の世界と佛の世界との二つの世界が、交通する。二つの世界が交通するところの道というものが明らかになってくる。

(『真人』第八三号 「法然と親鸞」)

曽我量深先生の言葉と職員感話を受けての法話

本日の法話・銀田 琢也(江戸川本坊・僧侶)

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

三毒五悪段」の言葉に「然るに世人、薄俗にして共に不急の事を諍う」とあります。世の中の人は佛教の智慧が薄く俗に染まり、急がなくともよいことを緊急事態にして争っている。

人間の世界と佛の世界が交通する。その道が明らかになるのが仏道。しかし私たちは一体何と通じ合って生きているのでしょうか。

佛の世界・佛の教法ということを『大経』では「大地のごとし」と説いています。それは何故かというと「浄穢・好悪、異心なきがゆえに」この世の価値観における、きれいなもの汚いもの、善い人悪い人といった枠に縛られることがないからである。だから佛の世界こそが我々の大地性として釈尊は心が交通したことでありましょう。だからこの大地性からすると、この世の価値観における「浄穢・好悪」は人間の浅ましき智慧であります。正しく「薄俗」なのです。

現代も正しく「大地性」を見失ってしまいました。実際の大地も人間に順じたものではありません。しかし人間が先の立場となるかのようにいつのまにか大地を「ここは俺の土地」「ここは俺たちの領土」と所有化し不急の争いをしてしまっているのです。そして大地と通じる、大地と共にするのではなく「共に不急の事を諍う」現実を又佛の世界・佛の教法から照らされています。

又そのような土地や領土の所有争いが本来の大地を汚染してしまうのです。このような人間の智慧といった闇を、いつも佛の世界は教法として照らしているのです。人間の悲しい問題を背負っているありようをいつも悲しみの眼差しで佛は見つめているのです。

人間の世界は悲しみが閉鎖されている闇、仏法の世界は悲しみの眼差しでもって開かれた智慧の光。闇と光が相照らし合っているのです。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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