正信偈唱和
曽我量深先生の言葉抄拝読及び僧侶法話
曽我量深先生の言葉本文
つまり自分が自分と対話すればいいんでしょう。対話というのは自分が自分と対話するのがもとでしょう。自分が自分と対話すると、そうすると、こんどは、自分の家内と対話すると、そうして、だんだんこうずっと対話していくと、そうして一番もとは、自分が自分と対話ができればいいんでしょう。そうでありませんかね。
お念佛というのはつまり自分が自分に対話する道なんでありませんかね。本願というのは、そういうんでしょう。自分が自分と対話するのが如来の本願というんでしょう。自分が自分と対話できないならば本願という意味はないんですわ。自己は自己と対話するということが本願の念佛だと、そういうふうに一つ考えたらどういうもんでしょう。
親鸞聖人は常にねてもさめても自分が自分と対話していなさる。親鸞聖人の生活はそういう生活ですね。時代に欠けているものは対話しないことが欠けているんだと、こういう意味でしょう。ものの考え方がちょっと考えて、欠けているのは当たり前だと、いまの時代は滔々としておる、その滔々としているそれに流されないのが一つの自覚になる。
(『真宗』昭和四三年三月号)