※本日、音声の不具合により動画ではなく文章での法話更新とさせて頂きました。ご了承の程お願い申し上げます。
曽我量深先生の言葉本文
自分が自分の先覚者を、長い間苦しめた罪を自ら内省することが、教化である。
自分の暗い道程を新しく見直す事である。之が還相廻向である。
自分の昔の生活に立ち帰る。
昔の生活を見直す事である。
真実の教化は信仰の無いものを目覚ます為に自己を捨てて働く事である。
如来に救われたる衆生は
軈て
衆生を救う如来と成る可し
昭和十八年五月
量深
本日の曽我量深先生の言葉を受けての法話
銀田琢也(江戸川本坊・僧侶)
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
「自分が自分の先覚者を、長い間苦しめた罪を自ら内省することが、教化である」
私たちは家族の中にも先覚者・即ち親といったご先祖と生活を共にしている時は何が問い返されるのでしょうか。
それは感謝ということではなく退屈という在り方が問い返されます。退屈とは単に暇なことと解釈しがちですが仏教用語から来ています。家族と毎日生活していると朝起きたら同じ顔が出てきます。そして次第にそのことに慣れてくると朝起きて同じ顔が出てきたらすぐ文句の言い合いから始まるようになっていきます。そしてそれだけ当たり前になって心が退いて屈してしまう関わりが自らをも苦しめ家族をも苦しめ、一番近くの存在が一番遠い存在へとさせてしまうのです。正しくその家族との関わり合いが退屈であります。
しかし仏はそこを「かねてしろしめて」退屈な心を打破させんと「罪悪深重煩悩熾盛」といった罪の問題を歎いているのです。親鸞聖人はそのような我々の心の闇(退屈)のありように対して歎異している仏の声が聞こえたところから「罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします」として自らをも内省せられたのです。
正しくこの仏の歎きの声こそが世の中を指導していく。そして我々も昔の生活を見直すことが見出されて本の心に還っていくのです。これが即ち還相廻向です。退屈と思って流されていた日々にも実は大いなるものが意味されていた。同時に自らを省せらて退屈な在り方から不退転な生き方へと転換せられていくのです。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏