正信偈唱和
歎異抄を読む-歎異抄講義4月7日木曜日
歎異抄・第一条
一 弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。そのゆえは、罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえにと云々
本日の歎異抄・第一条 講義文
死ぬということは、人生の完成であって、その人生に向かって、一歩一歩、日暮しをさせていただいている。それは、「弥陀の誓願不思議」に出遇ったからです。そのことに目覚めるのが、信じるということです。
信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずかしめたまうなり。
弥陀の誓願は、お念仏もうすものを必ず救うという誓願です。その誓願に応えるのが、「念仏もうさん」ということです。弥陀の誓願は、ただ念仏もうしべしという教えです。それに応えるのは、念仏しようという心が起こるときということになります。お念仏もうすべしという教えに遇って、「ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ」と、すぐに称えるのは、正しい返事ではありません。「お念仏もうすべし」といわれて、「はい」と応えるのが、正しい返事です。「はい」と返事するのが、「信じて」ということです。弥陀の誓願不思議の中に生きていたのに、それを忘れていた。その事実に「はい」と頷く、「はい」と返事をする。それが「信じて」ということです
(事実に頷く 23頁1行目~23頁11行目)