正信偈唱和
歎異抄を読む-歎異抄講義4月13日水曜日
歎異抄・第一条
一 弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。そのゆえは、罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえにと云々
本日の歎異抄・第一条 講義文
これは、ずっと呼ばれていたという自身の自覚です。「気づいてくれ、気づいてくれ。本当に尊いいのちをいただいているのだということに気づいてくれ」と、ずっと呼びかけられていたのです。けれども、それに「はい」という返事ができなかった。わからなければ返事ができない。「ああ、ずっと呼ばれていたのか」と気づくというのが返事ができなかった。わからなければ返事ができない。「ああ、ずっと呼ばれていたのか」と気づくというのが、「はい」という返事のときです。そのときが、「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」です。まさしく、そのときが利益を得るときです。どういう利益かというと、ここに私が私自身として生かされていることに目が覚める。そういうのが利益だというわけです。この「摂取不捨の利益」というのは、現在ただ今、利益にあずかるのです。「あとで」というのでなくて、助かっているという、その証拠が信心であり、念仏です。助かるということは、現在ただ今のことであり、弥陀の誓願不思議に遇ったというときが、すでに助かっているときだと示されているわけです。そのこと忘れてしまっているのが私です。
(ものの逃ぐるを追わい取る 24頁12行目~25頁5行目)