正信偈唱和
4月15日(金)歎異抄を読む-歎異抄講義4月15日金曜日
歎異抄・第一条
一 弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。そのゆえは、罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえにと云々</p>
本日の歎異抄・第一条 講義文
室町時代の蓮如上人の語録の中にも「摂取」の解説があります。ある人が、「摂取不捨のことわりを知りたい」と思って、あるお寺の阿弥陀さまにお参りをした。そうしたら、夢に阿弥陀さまが出てきて、袖をとらえて、自分は逃げようとするのだけれども、その阿弥陀さまがしっかりと捕まえていて、放してくださらない、というようなことがあったと。それで、
摂取と云うは、にぐる者をとらえておきたまうようなることと、ここにて思い付きけり。『蓮如上人御一代記聞書』
と。つまり「摂取」というのは、逃げるものを捕まえて、「ここにいなさい」といって、とどめておくようなことだと、いっておられるわけです。これは前々から親鸞聖人の指導を受けてのことではないかと思いますけれども、「摂取不捨」ということがわかるのは、逃げていた、逃げようとようとしていた自分だったと気がつくところが、「摂取不捨の利益にあずかる」ということなのです。つまり、「誓願不思議という事実を忘れて、仏も法もあるものかというような思いで生きていましたが、阿弥陀さまはお捨てにならないで、追いかけて、捕まえていてくださったのですね」と、そういう気持ちが「摂取不捨」という了解にでてくるわけです。
ですから「摂取不捨」ということをわからないからといって、駄目だというわけでもないのです。「摂取不捨」ということがわからない。わからないからこそ、親鸞聖人も「自分は逃げていた」といわれるのです。そうすると、かえって逃げる気持ちがわかっている人のほうが、追いかけてきて捕らえて放さないということを余計にわかるのでしょう。
(ものの逃ぐるを追わい取る 26頁3行目~26頁末)