正信偈唱和
歎異抄を読む-歎異抄講義4月21日木曜日
歎異抄・第一条
一 弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。そのゆえは、罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえにと云々
本日の歎異抄・第一条 講義文
「親鸞聖人は偉い人ですから、そういうことをお思いにならないでしょう」というと、そうではないのです。親鸞聖人が真っ先に、ご自身が「罪悪深重煩悩熾盛の衆生として私はいる。この私を摂め取って捨てないというために、あらゆる力を尽くして教え、育んだくださった」と、弥陀の誓願不思議に出遇っておられるわけです。
弥陀の誓願不思議に出遇うということは、実は罪悪深重煩悩熾盛の自分自身を深く知るということと一体なっているということなのです。ここがとても大事なところです。
罪悪深重煩悩熾盛の衆生が、ほかでもない、この私自身だと自覚する。『歎異抄』の「後序」に、
聖人のつねのおおせには、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐そうらいし
とあります。親鸞聖人は、つねに独りごとのようにしていわれたということです。「私は皆さんの前でもうし上げたいと思います」というように、大きな声で出していわれているのではなくて、自分自身に向けて、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」とつぶやかれた。これは、どういうときに感じられたのかというと、やはりそのあとの、「そくばくの業をもちける身にてありけるを」という、その身の自覚をとおして、実感なさったでしょう。
(罪悪深重煩悩熾盛の身の自覚 28頁6行目~29頁1行目)