正信偈唱和
歎異抄
歎異抄・第二条
一 おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておわしましてはんべらんは、おおきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にも、ゆゆしき学生たちおおく座せられてそうろうなれば、かのひとにもあいたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。善導の御釈まことならば、法然のおおせそらごとならんや。法然のおおせまことならば、親鸞がもうすむね、またもって、むなしかるべからずそうろうか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなりと云々
本日の歎異抄・第二条 講義文
親鸞聖人は、承安三(一一三七)年に、京都にお生まれになりました。そして、九歳までに両親と別れ、伯父の日野範綱に連れられて、青蓮院という天台宗のお寺で出家得度され、九歳から二十九歳まで天台宗の行者として修学されました。そして、二十九歳で比叡山を下りて、法然上人に出遇い、お弟子になられました。三十五歳のときに承元の念仏弾圧があり、法然上人はじめお弟子が、流罪あるいは死罪になりました。親鸞聖人は、越後の国府(現・上越市)に流罪になりました。そこで五年間、流人として暮らし、流罪が解けてからも、二、三年は越後におられて、四十二、三歳のころ関東に入られます。そして常陸、下野を中心にして二十年間住まわれました。
関東で親鸞聖人は、念仏の教えを説き広められました。その教えを受けた人たちが、命がけで親鸞聖人に会うために京都まで来られたときのお言葉です。したがって、お話しがあった場所は京都です。関東から京都まで、歩いて親鸞聖人のもちへ訪ねて来られた人たちです。それで「おのおの」というのは、想像ですが、親鸞聖人がおられる草庵か、お寺か、座敷で、親鸞聖人を囲んでのお話し合いのときの親鸞聖人の言葉が、この第二条ということになります。
(十余か国のさかいをこえて 34頁9行目~35頁2行目)