正信偈唱和
歎異抄
歎異抄・第二条
一 おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておわしましてはんべらんは、おおきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にも、ゆゆしき学生たちおおく座せられてそうろうなれば、かのひとにもあいたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。善導の御釈まことならば、法然のおおせそらごとならんや。法然のおおせまことならば、親鸞がもうすむね、またもって、むなしかるべからずそうろうか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなりと云々
本日の歎異抄・第二条 講義文
この世の楽しみは、だいたい見当がつくのではないかと思います。たくさん歩いてくたびれたというときに、椅子がある、あるいは座布団があって、すわるこちができると、楽だと思う。また、暑くてたまらないときに、涼しい部屋に通されると、涼しいなあと、ほっとする。
ところが、そのままずっと座っていてくださいといわれると、楽だったはずのことが、楽でなくなってきます。立ちたいとか、膝をくずしたいと思います。そこで、「膝をくずして結構です。くずしたら、ずっとそのままでいてください」といわれると、今度は腰が痛くなったりします。暑いところから涼しい部屋へ入った来たときも、最初は、涼しい、楽だといっていますが、ずっとその部屋にいてくださいといわれると、今度は寒くなってきて、夏でもセーターが要るようなことになったりします。
(往生極楽の道をといきかんがため 36頁14行目~37頁5行目)