一切の有(う)情(じょう)は、みなもって世々(せせ)生々(しょうじょう)の父母(ぶも)兄弟なり。
親鸞聖人 『歎異抄』第五条
私の滋賀県草津の生家には、代々伝わる古いお仏壇があり、月に一度、近くのお寺のご住職が月参りとしてお経をあげに来ていました。そのような環境の中で、私は幼いころから仏教や仏事に親しんで育ちました。
ある時、ご住職に何のお経をあげておられるのかを聞いたところ、『仏説阿弥陀経』と教えていただきました。普段から自分でも読経してみたいと思っていた私は、近所のお仏壇屋さんで『仏説阿弥陀経』の経本を買い、家で自分なりにお経をあげるようになりました。今度は「このお経はどんな意味があるのか」「そもそも何が書いてあるのか」と興味が広がり、調べてみると、お釈迦様がお弟子に対して、阿弥陀如来がおられる極楽浄土とは何か、またその阿弥陀如来を東西南北上下の無数の仏さまが褒めたたえておられることを説法されているお経であるとわかり、強く感銘を受けたことを覚えています
お釈迦様がお生まれになったのは、今から約二千五百年前ですが、当時は地球が丸いことも信じられていなかったかもしれません。海の果てには地球の端があるというのが当たり前の社会認識だったのかもしれません。その中で「東西南北上下」という宇宙論的な三次元の考えを示されたことが衝撃的で、私も僧侶になりたい、もっと仏教を学びたいと思うようになったのです。
父母が亡くなり、家督を継いだ私は、引き続き月参り法要をお願いし、ご先祖様を偲ぶ日々を過ごしていました。そんな私は今、僧侶として生きています。幼少期から実に60年以上の月日が流れていました。
僧侶となった私は、「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり」(真宗聖典769頁)という親鸞聖人のお言葉に出遇いました。私は、仏教の学びを通して、このお言葉が『仏説無量寿経』の第五願で説かれる「宿命智通の願」(真宗聖典17頁)を表しているのではないかと思ったのです。「宿命智通の願」とは、はるか遠い過去から現在に至るまで続く無限の命の事実が知らされる願いです。私は、先述の宇宙論的な世界観と同じくらい感動しました。私たちの命は、科学的には、母の胎内でわずか十ヶ月余りの間に数十億年分の歴史を遺伝情報として生成し受け取り、人として誕生してくるといわれています。一人の人間の誕生を父と母との縁で見ても、そこには無量の父と母につながる縁がなくては、私は存在しえません。その私を成り立たせているのは無限の過去からの命の繋がりであり、それを抜きにして私の存在は成り立たないのです。
私は、母親の胎内から誕生した時を始まりとして、死をもって終わりとするような人間観・生命観で見てしまいがちです。そのいのちを私有化して、「私のいのちとあなたのいのち」と分けて考えるように生きてきたように思います。宿命智通とは、私のそのようないのちの見方が真実の見方ではないと知らせてくださる智慧であると思うのです。「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり」との親鸞聖人のお言葉は、私が私としてそこにいるという存在の重さ、歴史の深さに心を開かれるように呼びかけてくださる「宿命智通の願」であり、私が幼いながらに感動して手を合わせていた、ご先祖様たちから思われている心そのものではないかと思うのです。