自分は孤独のものでも、世界中の人から憎まれても、自分が人を信ずるということがあるならば、また人に信ぜられるということもあろうが、しかしそれは相対信。佛さまに信ぜられているとは、これは絶対信。私どもはまず佛さまに信ぜられている。必ずお前は助かる。どんな邪見、また堕落しようとも必ず助かる-こう佛さまに信ぜられているということ、これわれらの信心のもとである。それを私どもは佛性という。
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。
とは阿弥陀如来は親鸞を無条件、絶対的に信ずる、そういう意味でしょう。十方三世のすべての諸佛にも信ぜられない。けれども阿弥陀如来に信ぜられることによって、十方三世の諸佛にも信ぜられておる。十方三世の諸佛に信ぜられているのは、阿弥陀如来に信ぜられているからである。私どもは誰に信ぜられなくとも、阿弥陀如来に絶対信ぜられている。これが佛性……佛性の自覚というものである。
曽我先生実語抄(信の根元 68頁11行目~69頁5行目)