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Home トップページ  >  今日の法話  >  6月2日(木)毎朝のお経と法話の会 (正信偈)※音声の不備により文章での法話更新とさせて頂きます。ご了承の程宜しくお願い致します。

6月2日(木)毎朝のお経と法話の会 (正信偈)※音声の不備により文章での法話更新とさせて頂きます。ご了承の程宜しくお願い致します。

歎異抄・第二条

一 おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておわしましてはんべらんは、おおきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にも、ゆゆしき学生たちおおく座せられてそうろうなれば、かのひとにもあいたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。善導の御釈まことならば、法然のおおせそらごとならんや。法然のおおせまことならば、親鸞がもうすむね、またもって、むなしかるべからずそうろうか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなりと云々

本日の歎異抄・第二条 講義文

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」ということは、阿弥陀仏のご本願は、ひとえに親鸞一人がためだったのだという言葉です。ご自身が、「自分だけ」といって、威張っている言葉ではありません。これは、そくばくの業、数知れない悪業をもった自分であったのを助けようと思い立ってくださった本願のことを念じたいわれた言葉です。

(信ずるほかに別の子細なきなり 46頁14行目~47頁1行目)

本日の歎異抄・第二条 講義文を受けての法話 銀田 琢也 (江戸川本坊・僧侶)

仏の願いは苦悩の深い私のためであった。これが親鸞聖人が出遇った念仏です。もうすでに仏は、自己の苦悩の深さの有り様を温かく見つめていた。自分で自分をどう善しとして受け止めていいのかわからなくなるくらい人間は迷いを繰り返す。これは人間として生まれたならでは、又は自分を生きているならではの悲しみでもあります。誰しもがそのことを抱えているのは自分に気づいてなくとも仏が引き代わりになって気づいていたのです。

親鸞聖人は仏の願いの出処が説かれている『大無量寿経』を真実の教えとして仰いで、その真実の教えから、自分の苦悩の有り様が見つめられているかのような驚きがあり、そこに生きた仏教を感じたのです。自分が教えの言葉を見るのではなく元々教えの言葉が自分の苦悩を見つめていたことに、自らの立ち位置が変わるくらいの驚きだったのではないでしょうか。

他の苦悩を救う人は、本当の苦悩の在り方や本当の悲しみの意味を知ってる人でなければなりません。仏はこの人間のさまざまな苦悩の有り様や悲しみに、同調し自らの心をその人その人あるゆる人に寄せて来たのです。苦悩するものは、苦悩の有り様を知るものに救われ、悲しみを抱えるものは、本当の悲しみを知っているものに救われるのです。

親鸞聖人は自らの修行で固めた念仏を気づいたのではなく、出遇わさせて頂く念仏に気づかれたのです。

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