正信偈唱和※6月7日(火)法話アップロード遅れて申し訳ございません。6月7日(火)法話もアップロードいたしました。「最近の投稿」の項目にてご覧下さい。
歎異抄
歎異抄・第二条
一 おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておわしましてはんべらんは、おおきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にも、ゆゆしき学生たちおおく座せられてそうろうなれば、かのひとにもあいたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。善導の御釈まことならば、法然のおおせそらごとならんや。法然のおおせまことならば、親鸞がもうすむね、またもって、むなしかるべからずそうろうか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなりと云々
本日の歎異抄・第二条 講義文
「ただ」とは、唯このこと一つ、という「ただ」です。唯このこと一つ。つまり一切のほかの修行は、全部自分には間に合わない。布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧をはじめとして、仏道修行はたくさんあります。親孝行や人助け、先輩や先生に仕える。そういう修行は、数多くあるけれども、自分にはすべて完全に果たし遂げることはできない。一切の修行ができない、その自分のことをよくわかって、ただ念仏だけだよ、と教えてくださった、その教えを信じます。そういう気持ちでの「ただ」です。
(信ずるほかに別の子細なきなり 48頁1行目~48頁5行目)