正信偈唱和
歎異抄
歎異抄・第二条
一 おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておわしましてはんべらんは、おおきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にも、ゆゆしき学生たちおおく座せられてそうろうなれば、かのひとにもあいたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。善導の御釈まことならば、法然のおおせそらごとならんや。法然のおおせまことならば、親鸞がもうすむね、またもって、むなしかるべからずそうろうか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなりと云々
本日の歎異抄・第二条 講義文
ここはどうなのでしょうか。理屈で考えているのとは違うということをいわれているのでしょう。「存知せざるなり」とあります。理屈で考えてわかるのが「存知」ですが、そういうことでありません。「ここにこう書いてあるし、あそこにこう書いているし、ここにも書いてある。あの人もやっているし、この人もやっている。皆やっているのだから、やっぱりいいのではないですか」というのでは理屈です。
ガツンと人を叩いたときに、「痛いじゃないか。どうして叩くんだ」といわれて、「そうじゃない。私が手を出したところに、あなたの頭があっただけだ」とか、「騙しただろう」「違う。あなたが騙されただけだ」と、なんでも理屈はつきます。しかし、そうではない。理屈の上で念仏だといっているのとは違うのだというのです。つまり、「よきひとの仰せをかぶりて、信ずる」というのは信知ということです。
(よきひとのおおせ 50頁10行目~50頁16行目)