トップページ > 今日の法話 > 8月3日(水)毎朝のお経と法話の会 ※夏休み!毎朝お坊さん修行(真宗宗歌・正信偈)※音声の不備により文章での法話更新とさせて頂きます。ご了承の程宜しくお願い致します。
歎異抄・第八条
一 念仏は行者のために、非行非善なり。わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。ひとえに他力にして、自力をはなれたるゆえに、行者のためには非行非善なりと云々
九
本日の歎異抄・第八条 講義文
そういう立場に立ったときに、やはり命があって亡くならないものはないのだ。いつ病気になるかわからないことも、本当のことだったのだ、最後に残るのはお念仏しかないんだと、妻子も財産も、わが身に一つも添うことはないのだということも聞いていた。かねて当てにしていた貯金も、何もかも全部置いて、最後は一人でいかねなければならないということだった。そういう一生だったのだということを、前もって考えたことがあるかどうかで、だいぶ違うと思うわけです
(除災招福を祈るわがままな心 210頁10行目~211頁17行目)
本日の歎異抄・第八条 講義文を受けての法話 銀田 琢也 (江戸川本坊・僧侶)
人はいつしかは死んでいかねばならない。この理屈は当たり前すぎて漠然となりますが、しかしこの世の中には当てになるものがひとつもない。最終的にお金も大事な家族も。
まことに、死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も、財宝も、我が身にはひとつもあいそうろうべからず
蓮如上人の『御文』にございます。
お金、築き上げた家族、そのような人生における財産を成し遂げたとしても、やがて死んでいかねばらないということが全てを奪っていくわけです。この悲しみの問題を誤魔化さず迷いの身のままに聞いていくのがお念仏の教えなのでしょう。
いつしか大事な家族が亡くなっても涙を流したくなくて元気な振りをしようとして、涙が出そうな感情と無理に戦おうとしてしまう。現実を受け止められないから自分の自意識で無理に抑え込もうとしたりしてしまう。しかし身近な人が「本当は辛いんだよね」「本当は悲しいんだよね」とさりげなく泣きながら声をかけられると、無理に自分の自意識で抑え込もうとしていたものから解放されて涙ともなり、はじめてその現実を受け止められる。これは自分の悲しみや抑えてる涙に寄り添ってくれる言葉をかけられると、共に涙してお互いに手が合わさるのです。
手が合わさることが自分のなかにおこるのも非行・非善なのでしょう。本当の涙があたえられるような言葉、自分の悲しみを自分のことのように泣いてくれている言葉に触れた時に手が合わさる。そのようなことがおこりうるものとして仏は我々人間を見出していたわけです。
泣くべきこと泣きたいという深い要求が人間の心の中にある。その涙から手があわさるもの出遇う。そのような心を開かしめんと仏は深く私たちに要求しているのです。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。