歎異抄・第三条
一 善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おおせそうらいき。
本日の歎異抄・第三条 講義文
それでは、その善や悪の基準とは何なのか、どこから見て善、どこから見て悪なのかということが、やはり問題です。戦争では、敵をたくさん殺すことが勲章をもらえることです。「人を殺すのはいやだ」といったら、牢屋に入れられます。敵を殺せなければ、兵隊失格だというわけです。これは戦争のときの基準で、善と悪を分けた場合です。平和な時代の善と悪というのもあるでしょう。
(愚かであることの自覚 73頁1行目~73頁4行目)
本日の歎異抄・第三条 講義文を受けての法話 江戸川本坊・銀田琢也
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
人間ということほど殺し合いをする生きものはないですし、人間ということほど危険な思想(戦争で敵を殺すことが勲章になる等)をおこす生きものは実はいないのです。
しかし人間はその範囲で考える善悪の基準にとらわれて迷いを繰り返してきた。それが人類の歴史の愚行でもあり、人類の歴史の悲しみなのです。
その悲しむべきことを知らせようとして常に歎いているのが阿弥陀仏の本願からなのです。
時代を超えて常に悲しむべきことを人間に知らせているのが阿弥陀仏。人間に心開かしめんとしている願いを真実の歎きとして親鸞聖人は阿弥陀仏の声として聞こえていかれたのです。これは人間の考える閉鎖的な善悪思想を超えた真実のはたらきとして親鸞聖人は聞こえていかれたのです。
戦時中に他人を殺してしまった罪深さに促されて自殺した帰還兵も過去に数えきれないくらいいるのです。
自分が自分に対して誤魔化せられないくらいの罪深さが襲ってきて自殺するということは、それだけ戦争で他人を殺してしまったことも、たとえ救われるものになっていかない閉鎖性の果てしなさがあるのではないでしょうか。人間の思想で人間が救われることはない。どこまでも閉鎖性を意味しているのが人間の考える善悪思想なのでしょう。
その人間として悲しむべき涙を促すべくはたらきをしているのが弥陀の本願なのでしょう。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏