歎異抄・第三条
一 善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おおせそうらいき。
本日の歎異抄・第三条 講義文
「どうしてあんなひどいことをするのでしょう。信じられません」などといっている人は、ほとんどが自力の話です。それはつまり、そのような状況になったら、どんなことをするかわからないのが人間ではないですか。このように見るのが、親鸞聖人の立場です。「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」、それが人間ではないのかといわれるわけです。「今日一日、腹を立てません」と誓っても、ちょっとしたことで、すぐにその誓いは壊れてしまいます。どんなに誓っても、誓っても、その誓いを貫き徹すことはなかなかできません。
(本願他力の意趣にそむけり 75頁13行目~75頁17行目)
本日の歎異抄・第三条 講義文を受けての法話 江戸川本坊・銀田琢也
人は状況によって、どんなことをしてしまうのかわからない。これは私たちの自分の思いさえも思い通りにならないくらいの事実かと思います。
他人に腹を立ててしまうことも、自分の意識を超えてそうなってしまいます。人生思い通りにならない厳粛さを抱えている以上に、私たちは自分の思いさえも思い通りにならないのです。
又私たちは時代時代の影響を受けていますので、その時代時代の思想や価値観に、自分の思いが染められていくのです。又その思想を絶対だとも思ってしまうのです。
やはり自分の思いさえも思い通りにならないのです。
『正信偈』にも「惑染の凡夫」とありますが、正しく時代時代の思想に惑わされて染められていくのです。壊れてしまいかねないなかに迷いを繰り返していることにおいては、皆同じことなのです。たとえ「どうしてあんなひどいことをするのでしょう。信じられません」などといっている人であっても、皆そのことにおいては同じ業縁を抱えて生きているのです。
もし「あの人のこと信じられません」といっている人でも、批判の対象としている人と、もし同じ状況を抱えていたら同じことをしていたかも知れない。
この人間の思いはかりようの知れなさを、そのまま悲しみの眼差しで見つめていたのは仏なのです。仏はそのような人間存在の思いはかりようの知れなさを厳粛存在として見つめていたのです。
たとえ他人のことを「どうしてあんなひどいことをするのでしょう。信じられません」と批判しようとも、自分の独断で他人を判断することが出来ないくらいのものが貫いているものがある。それはどういうことかというと仏からすると人間は皆、自分の意識ではどうにもならない、思いはかり知れないほどの業縁を抱えている。そして又自分の意識を超えて目を閉じていかねばならないのです。だから自分の善し悪しで他人を判断しようとも、判断しきれないくらいのものが貫いている。そのような深い人間観を仏教に教わるのです。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏