歎異抄・第三条
一 善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おおせそうらいき。
本日の歎異抄・第三条 講義文
そこで、「あなた、顔が汚れていますよ」といって教えてくれるのは、誰でしょうか。それは、本当に自分のことを思ってくれている人が教えてくれるのです。電車に乗り合わせただけの他人さまや、初めて会う人とか、もう二度と会う予定のない人は、「あの人、顔が汚れてる」と思うだけです。やはり、本当に相手のことを思っている人、自分のことを思ってくれている人が注意してくれるわけです。また、鏡を見てわかるということもあります。自分のことを本当に思ってくれる人がいれば、また鏡があれば、自分の汚れがわかるわかるのです。「自力だな」ということを教えるのが、阿弥陀仏の智慧のはたらきだといわれるのです。
(自力を気づかせる阿弥陀仏の智慧 77頁3行目~77頁9行目)
本日の歎異抄・第三条 講義文を受けての法話・銀田琢也(江戸川本坊・僧侶)
自力とは自分こそが正しいと思いを頼りにして、そうでない他人を見てはすぐ見下したりする。そのような嫌らしい心や冷たい心が揺れ動く問題を言い当てる言葉です
善いことはすればするほど他人との比較に惑い、その自力行は自分を救いとして貫くものになっていかない。善いことをしても自分へのこだわりがついてまわり他人との比較に惑わされる以上に、自分にも惑わされていくのです。
だから自力行は自分を救いとして貫くものになっていかない。どこまでも自分に頷き切ることがなく、自分ということを生きている難の問題に惑わされるのです。この難の問題・自力を気づかせている仏の智慧こそ正しく他力であるのです。これは私たちの自力という狭い惑の範囲を超越したはたらきをあらわすのです。そこの自力にこそ、仏は自らが他力といった鏡になり、教えの言葉が私たちの自力を包まんとする鏡となるのです。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏