歎異抄
歎異抄・第八条
一 念仏は行者のために、非行非善なり。わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。ひとえに他力にして、自力をはなれたるゆえに、行者のためには非行非善なりと云々
本日の歎異抄・第八条 講義文
おおよそ大信海を案ずれば、貴賎・緇素を簡ばず、男女・老少を謂わず、造罪の多少を問わず、修行の久近を論ぜず、行にあらず・善にあらず・頓にあらず・漸にあらず・定にあらず・散にあらず、正観にあらず・邪観にあらず・有念にあらず・無念にあらず、尋常にあらず・臨終にあらず、多念にあらず・一念にあらず、ただこれ不可思議・不可説・不可称の信楽なり。たとえば阿伽陀薬のよく一切の毒を滅するがごとし。如来誓願の薬は、よく智愚の毒を滅するなり。
という言葉があります。これを「大信海の釈」といいます。四つの不と、「非ず」が十四回繰り返されているので四不十四非といいます。大信海というのは、大きな信心の海ということで、信心の深い内容、広い内容を説かれたものです。阿弥陀仏のお心を、私たちは信心としていただく。そういう内容を持っているのが信心です。そこで真実信心の内容とは何かというと、それはまず「貴賎・緇素を簡ばず」、貴賤というのは身分です。身分が尊い、卑しいということで、差別をしないということです。それから緇素というのは、出家・在家ということを示します。緇というのは、黒いという意味で、素というのは白いということ。白い服は在家の人が、黒い服は出家の人が着ます。つまり緇のほうが僧侶で、素というのは在家の人、出家してない人です。
(大信海の釈 218頁9行目~219頁6行目)