正信偈唱和
歎異抄
歎異抄・第三条
一 善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おおせそうらいき。
本日の歎異抄・第三条 講義文
煩悩というのは、煩い悩みです。それが具足しているというのは、十分に具わっているということです。煩い悩みが十分に具わっている、欠け目がないというのです。煩悩は、貪、愼、痴、慢、疑と、数えていくと百八つあるといいます。それで除夜の鐘は百八回撞くといいますが、本当はそうではありません。億千万無量無数の煩悩があります。そして、その煩悩を全部持っているというのが煩悩具足ということです。「私は怒ることは多いのですが、欲しいと思ったことはないですねえ」などというのは、だいたい嘘です。「私は欲しい煩悩は強いのですが、怒る煩悩は弱いのです」、そんなことはないでしょう。だいたい全部具わっています。だからこそ、煩いと悩みが離れることがないのです。
たとえば、何かで表彰されるようなことがあっても「有難うございます。みなさんのおかげです」といいながら、もう自分の悪事が露見しないかと思って、びくびくしながら暮らしているのです。社長だといって威張ってしまう。汚職とか収賄などという事件があります。そういう話は、自力作善という。その自力作善の恐ろしさということをよく見据えてくださっているのが親鸞聖人です。
そこから開かれてくるのは、どういうことでしょうか。ふりをするのはやめましょうということです。それでも、ついつい、善いふりをしてしまうのが人間です。そういう在り方、全部含めた、南無阿弥陀仏とももうしましょう。
(善悪平等の救い 80頁7行目~80頁17行目)