正信偈唱和
歎異抄
歎異抄・第八条
一 念仏は行者のために、非行非善なり。わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。ひとえに他力にして、自力をはなれたるゆえに、行者のためには非行非善なりと云々
本日の歎異抄・第八条 講義文
それから「正観にあらず・邪見にあらず」。正しい師について、正しいお経に依って精神統一して、静かにものを見つめていくちうのが正観。邪見とは、邪師邪教による精神統一です。いずれにせよ、そのような精神統一の話ではないということです。次の「有念にあらず・多念にあらず」もそうです。有念というのは、「助けてください。ナマンダブ」と気合を入れることですし、無念というのは何ごとも考えない。何ごとも考えないということも考えないというのが無念です。行者が助けてくださいと、気合を入れて念仏することでもないし、無念無想で何も考えないというようになるこおでもなりません。「尋常にあらず、臨終にあらず」尋常というのは、常日頃ですし、臨終というのは、死に際です。常日頃、念仏してポイントのように積み上げていくようなものでもないし、臨終に念仏を称えれば往生できて、称えれば往生できて、称えなければ地獄行というような話でもない。
(大信海の釈 220頁2行目~220頁9行目)