正信偈唱和
歎異抄
歎異抄・第三条
一 善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おおせそうらいき。
本日の歎異抄・第三条 講義文
聖徳太子という人は、平服の上に衣を着けて、そして政治を運営された人です。それで、日常の在家生活のただ中にも仏になるべき道があるのだと、まさしく在家の仏教ということを、身をもって実行された人です。その聖徳太子を、日本仏教祖師であるとして、「和国の教主聖徳皇」と、日本国の釈尊ですと、親鸞聖人は大変讃嘆されているのです。その親鸞聖人が「煩悩具足のわれら」といわれた、そういう気持ちは、実は聖徳太子までずっとさかのぼって、「共に是れ凡夫ならくのみ」という気持ちが親鸞聖人まで伝わってきているのだと思います。
(煩悩具足のわれら 84頁6行目~84頁10行目)