正信偈唱和
歎異抄
歎異抄・第四条
一 慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々
本日の歎異抄・第四条 講義文
実は、いま私たちは、浄土の慈悲を受けてるのです。どうして受けているのかというと、念仏によって受けています。念仏もうすということは、慈悲の現われです。阿弥陀仏の慈悲の心が、南無阿弥陀仏となって現われているのです。手を合わせて南無阿弥陀仏ともうす。ここにもう、阿弥陀仏の慈悲がはたらいているのです。だから、現在ただいま、南無阿弥陀仏ともうす人に、仏の慈悲がはたらいている。「ああ、眠い。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」というような念仏であっても、それでも慈悲がはたらいている。行儀よくきちんと座って、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称えていても、慈悲がはたらいている。いつでもどこでも、大慈悲は念佛になってはたらいているということです。
(大慈大悲心をもって 109頁10行目~109頁末)