strong>正信偈唱和
歎異抄
歎異抄・第八条
一 念仏は行者のために、非行非善なり。わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。ひとえに他力にして、自力をはなれたるゆえに、行者のためには非行非善なりと云々
本日の歎異抄・第八条 講義文
それと同じように、第八条でも、こういう言葉がいい出される前には、こういう言葉が出てくる状況があったのでしょう。親鸞聖人の前で、おそらくはお念仏のことが話題になって、お念仏は立派な行ですよ、だから一生懸命行じましょう。それからまた、念仏は善です、善い行いですから、頑張って念仏申しましょう。そんなことをいう人があったのではないかと思います。親鸞聖人の前で、お参りの人同士でそういう話し合いがあったのではないかと思われます。あるいは、親鸞聖人の目の前でなくても、親鸞聖人の教えを受けた人びとの集まりの中で、お念仏はよい行いだからやりましょうというような意見があった。それを親鸞聖人が聞かれてのお言葉であろうと思います。念仏は行者にとって行である。念仏は行者にとって善であるという意見が前提にあって、親鸞聖人が「念仏は行にあらず善にあらず」といわれたのだと思います。そういう意見に対して親鸞聖人が勧める念仏というのは、行者にとって行でもないし、善でもないといわれる。行でなければ善でもないのであれば、やらなくていいのかというと、そうではありません。ここのところをよくよくうかがっていくというのが、この第八条の大事なところであろうと思います。なぜ念仏するのかというときに、それは、よい修行だからですよ、善行だからですよといわれて、それで念仏をするというのは、入口としては大変結構なことかもしれません。しかし、親鸞聖人の教えにおいて、念仏は本当には行でもないし、善でもないといわれるのです。
(念仏は行者のために、非行非善なり 208頁1行目~208頁末)