歎異抄
歎異抄・第七条
一 念仏者は、無碍の一道なり。そのいわれいかんとならば、信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆえに、無碍の一道なりと云々
本日の歎異抄・第七条 講義文
また、どこかの大学の学長が、十数年前に学生にしたというおもしろい話があります。
「この大学は勉強する場所である。遊ぶことを考えてはいけない。みなさんは青春時代をかけて勉強し、この大学に入ってきたわけであるし、学費もかかったであろう。だから、遊ばずに勉強しなければならない。しかし、どうしても怠けて遊ぼうとするのならば、留年ということを考えてもらわないといけない。ただし、私も留年した身である。留年したおかげで、一年下の学年の友だちができた。同学年の友だちもいるが、一年下の友だちもできて、友だちが二倍になった。この友だちが大変よかった。その友だちのおかげで今日の私がある」
と、学長はこのような話をしました。留年するなといっておきながら、留年したら良いことがあったといっているわけです。面白い学長だということで、人気が出たそうです。
つまり、現実の出来事をどのように受け止めるかということです。それによって、良いとも悪いともなるわけです。マルバツ式で、バツは止めて、マルだけにしようと思っても、決してそうはならない場合があるということです。そうならないような人生です。しかし、私たちは、たいていバツを嫌って、マルを好むのです。そこでますます迷いが深まって、お互いに傷つけあうことになるということです。この分別ということが、実は良くないのです。分別はダメだといっても、私たちは止められないのです。止めろといわれてもどうしても、分別はするのです。しかし、分別がすべてではないのだということに気がつくように、分別はいけませんよという教えがあるわけです。相対的な考え方ではいけませんといって、すなわち無分別ですよといって、分別がすべてではないのだということに気づかせようとしているわけです。それが、不二という教えでもあります。
(無碍の一道なり 178頁後6行目~179頁10行目)