【本文】 『歎異抄』 -第七条-
一 念仏者は、無碍の一道なり。そのいわれいかんとならば、信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。罪悪も業報も感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆえに、無碍の一道なりと云々
【解説】 法蔵館『歎異抄講義』上巻・三明智彰著
また「柔軟心」というような信心を説明されるところもあります。阿弥陀仏の法蔵因位のときの願いは四十八願ありますが、その中の三十三願に触光柔軟という願があります。
たとい我、仏を得んに、十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、我が光明を蒙りてその身に触れん者、身心柔軟にして、人天に超過せん。もし爾らずんば、正覚を取らじ。(真宗聖典二一頁)
阿弥陀仏の光明に遇うものは、身も心も柔軟になるということです。
たとえば、赤ん坊が転んでも、一時は泣きますが大きな怪我をしません。私たち大人が、赤ん坊が転ぶような転び方をしたら、大怪我をします。これはやはり体が硬いから、怪我をするのです。体が柔らかいと、転んでも怪我をしにくいのです。それを、ご信心のこととして私たちはいただいていくのです。阿弥陀仏の光に遇うものは、身も心も柔軟になる。柔軟なものは、怪我をしないから金剛といっても良いのだということです。
(金剛心と柔軟心 181頁4行目~181頁13行目)