10月10日(月) 毎朝のお経と法話の会
※本日・朝の法話 髙木 友裕 僧侶
【本文】『歎異抄』 -第七条-
一 念仏者は、無碍の一道なり。そのいわれいかんとならば、信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。罪悪も業報も感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆえに、無碍の一道なりと云々
【解説】 法蔵館『歎異抄講義』上巻・三明智彰著
それで、今ここで「魔界・外道」というときの外道は、人の心を外に向かわせる道。他人のせいにし、社会のせいにし、時代のせいにし、日にちや方角や星座のせいにする。
そして、自分が儲かればいい、自分さえよければいいと、そういう考え方が外道です。
しかしながら、そういう外道であっても、信心の行者を妨げることはできません。真の信心の行者は、悪魔、外道に妨げられるということがありません。
(我執にとらわれる外道の教え 193頁10行目~193頁13行目)
【本文】※上記の【本文】と【解説】を受けての法話
髙木 友裕 僧侶(江戸川・本坊)
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。お早うございます。本日も宜しくお願い致します。
皆さんいつもお参りに来て頂いてありがとうございます(お参りに来ている子供たちに対して)。私自身感謝しております。
「外道」とは自分勝手に生きて感謝の気持ちを忘れてしまうということです。 実は日頃当たり前と思っていたことが、感謝しなければならないことだったと気づかされていく。朝起きたら普通にお母さんがつくってくれた朝ごはんが食卓に出て来ます。
しかし、それまで目に見えないところで稲でお米をつくってくれた方や、パンの場合は小麦粉でつくってくれた方、そして用意して作ってくれたお母さんに対して「当たり前」と思ってしまう。
お念仏とはこの「外道」との問題を通して「当たり前と思ってしまっていたなあ」と気付かされるということ。その心のままに手が合わさってくるということです。「ありがとう(有難う)」とは「有る」ことが「難い」ですから、そして感謝の心が込み上げてくるということです。
本日もありがとうございました。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。