正信偈唱和
曽我量深先生の言葉拝読及び僧侶法話
曽我量深先生の言葉本文
この頃日本の知識階級、大学の総長から学生一般文化人といわれるような人達、そういう人達は、どうして東洋および日本伝統を捨てて、西洋に取り入ろうか、ということを、それが何か、歴史的な使命でもあるかのように思い込んで、そして何らかの疑うところもないらしい。何とまあ愚かな話だ、と思うんですね。そういう日本人は無自覚、自覚がないんだ―。もっとも今の学問からいえば日本は後進国、西欧・欧米は先進国でもありましょう。しかしそれが全部ではない。それが全世界ではない。ところが知識人というものは、西洋+アメリカが全世界。その外の国の世界の中に入ってない。まことに卑屈、卑屈極まる考えを日本の知識階級は持っているのあります。日本人は矢張り日本人として誇りに持たなくてはならない。真の誇りというもの、それを持てないから卑屈感を持っている。だから稀に誇りを持つというと、あの軍人のような、軍人の誇りような誇りを持ってしまう。他を征服しなければ落ちつけないような誇り、そうして軍人に突入する、浅ましい話です。あれは誇りというけれども本当は劣等感なんですよ。劣等感が形を変えた優越感、劣等感が優越感という仮面をかぶっていたんでしょう。本当は仮面を脱いでしまえば劣等感、そういうんでしょう。そういう誇りであるから侮る、見下げる。見下げられのでくやしい。日本人は何くそと奮発したというけれども、何くそなんてのは奮発どころではありません。あれは劣等感を変型させた見せかけの優越感。優越感のように見せかけた。そうして自ら欺き、人を欺く。その結果、そういう動機からの戦争を始めた。まったく滅茶苦茶な話です。中国の人が悪いんでも何でもない。みんなこっちの方からさまざまな悪いことをしておいてそうして相手にいいがかりをつける。やれ満州事変だとか、上海事件だとか、いや何々事件だとかと、いうて何べんでも事を起す。起したのは日本人が起したのですよ。そうして向こうにいいがかりをつけた。そういうことがみんな解った。つまり劣等感。劣等感をごま化して優越感に見せかける。大体、大概の人の優越感というのは、みんな劣等感をごま化してつくっているので、優越感を持っているなんてのは、すなわち劣等感を持っている証拠なんですよ―。
こういうことを明らかにすることが必要だ、と思うのであります。たとえば佛教における二種深信。機の深信。あの深信。あの深信ということは一つの信念、一つの信念でありましてあれは劣等感と違います。劣等感というものは優越感の変型であり、優越感の正体は劣等感である。こういうことをわれわれはよく反省し、内観することが必要であろうと思います。
(昭和三七年一一月一〇日・富山月愛苑にて)