※本日音声の不具合により文章で更新させて頂きます。ご了承の程宜しくお願い致します。
曽我量深先生の言葉本文
私どもは、いろいろの宗教で神様ということをいうが、困る時に神だのみする。どこどこの神様は御利益がある。「成田の不動さんには大変な御利益がある」、こういうように人がいうと、「そんなら私も参っていこう」といって成田の不動さんにお参りする。こういうのでありましょう。苦しいときの仏だのみである。これ現世祈祷である。外の宗教の仏様は現世祈祷の対象になる。阿弥陀如来様には現世利益がないかというと、本当に現世利益を与えて下さる方が阿弥陀如来である。
(『真人』第八二号「法然と親鸞」)
本日の「曽我量深先生の言葉」を受けての法話
銀田 琢也(江戸川本坊・僧侶)
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
「現世利益」これは正しく外の宗教です。外に目が向いているままに欲していることを適うために祈るものです。
日常は煩悩妄念のままに他人を見失い自己を見失う。いつも外に目が向いているままに、そのような日常に埋没するのです。そこから「無明煩悩のわれわがみにみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、なたむこころおおく」にまみれる。そのように諸々の感情に毒されている自己が内観せられるところに阿弥陀仏の本願がはたらいているのです。
私たちは欲の対象とする者には「無碍」と感じていますが、実際は「有碍」・障りあるものなのです。何故かいうと欲の対象としているもの、好んでいるものに寧ろ惑わされ自らが束縛(具縛の凡愚)をうけているからです。
そして欲が適ったとしても手に入れた者に対して自らが憂いの感情にさいなまれます。つまりそれが破壊してしまう恐怖感にさいなまれるということです「田あれば田を憂う。宅あれば宅憂う」。欲が適おうとも適わなくとも私たちは「有碍」の問題を抱えながら生きています。そしてその自らの感情で他人を心の中で裁いては、自らをも無意識的に裁いているのです。
知らず知らず自らの欲で自分を無意識的に評価しています。評価に適う自分を善しとして、そうでない自分を「何故だ」とばかりに・・自分が自分であることに「有碍」を感じているのです。
そのように迷いの深い、苦悩の深い私たちをそのまま気の毒にと念(おも)い、そのまま大切に見つめているのが阿弥陀仏です。その阿弥陀仏の憐みの眼差しを感じるところに外の宗教から、内観せられる自己に立たされるのです。これは又自分の欲で自分を評価し裁いている自分から、元々阿弥陀仏から大切に見つめられている自分へと帰る大きな転換であります。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏