歎異抄講義(上)・本文
中国の故事に「人間万事塞翁が馬」という話があります。昔、国境の砦の近くに住むおじいさんがいて、そのおじいさんのところには馬がいたそうです。その馬が逃げてしまった。しばらく経ったある日に、その馬が、ほかの馬を連れて戻ってきた。そして二頭の間に子馬が生まれた。そのうちに一頭また一頭と子馬が生まれて、たちまち馬の数が増えたのだそうです。その馬に、可愛い息子が乗って出かけたら、馬が暴れて、息子が馬から落ちてしまった。そのときに息子は足を折ってしまって、満足に歩くことが出来なくなってしまった。それからどれくらいか経って、戦争が起こったのだそうです。戦争になると、働き盛りの若者がかりだされるわけです。それで、村の若い男子が片っ端から徴兵されていった。しかし、息子は怪我の後遺症から片方の足が動かなくなってしまっていたので、兵隊として役に立たないということで、最後まで戦争にかりだされることなく、生き延びることが出たというわけです。
このようなお話から、「人間万事寒翁が馬」という言葉が出てきたわけです。馬が逃げてしまった。その馬が数頭で戻って来た。息子がその馬から落ちて足を骨折してしまった。見かけは悪いことのように思えたけれども、しかしそのおかげで息子は戦争に徴兵されずに生き延びることが出来、馬の数も増えて子孫繁栄することができたということです。目先の良い悪いではなくて、悪いことが良いことになる場合もあるという例です。このように、人生にはこのようなことがあるというのは確かだと思います。
(人間万事塞翁が馬 177頁14行目~178頁12行目)
歎異抄講義(上)・本文を受けての法話
銀田琢也(江戸川本坊・僧侶)
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
『愚禿鈔』の言葉に「毒とは善悪雑心なり」との言葉があります。私たちはいつの間にか気が付いてみたら「善」と「悪」の価値観にまみれて心が毒されていました。善いことをしたら、そのような自分を周囲が理解してくれなかったら何故と悩むし逆に悪い方に行き、悪いことをしたとしてもそれを真摯に受けて反省したら逆に良いことだったりします。
又国単位で考えても日本は科学が発達し豊かになっている。日本からしたら常識感覚で善いことなようですがそれが高熱化や大量のごみ等の環境汚染につながり、もしかしたら他の国からしたら悪いように見られているかもしれません。だから他の国の方からしたら常識ではないでしょう。
私たちは他人を「善し悪し」で裁いて、その自分も他人から「善し悪し」で裁かれいつもそこに埋没しますが、なにが良くてなにが悪いか解らない迷いの中で心が毒されています。これは皆平等に人間として生まれたならではの迷いをそこに抱えているのです。そして人間として生まれた迷いの心や毒されている心そのままを見つめているのが佛なのです。その姿ありようそのものが又佛からしたら悲しい姿として見つめているのです。だから佛は私たちの迷いの心や毒されている心のなかで同調し歎きつづけるのです。私たちの歎きは「善悪」にまみれた世間的歎きですが、佛の歎きは真実この上ない歎きです。その佛の歎きこそ私たちの心を照らしだす「無碍」のはたらきなのです。佛はいつも私たちの「毒」「善悪雑心」といった「有碍」の有り様を歎いているのです。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏