正信偈唱和
曽我量深先生の言葉抄拝読及び僧侶法話
曽我量深先生の言葉本文
私は念佛というのは一種の禅である、一種の禅と言ってもよいし、もう一つの言葉でいえば、念佛は最勝深妙の禅―最もすぐれた深い不思議な禅。だからアミダ佛の本願を信じたところの―アミダ佛の本願を念じてナムアミダ佛ととなえると、私共の心がしずまる。すなわち禅定でしょう。だから禅と念佛と二つ対立したものと考えてもいいけれども、また念佛は一つの禅であるー。こう考えて差しつかえない。念佛そのものが禅だ。『歎異抄』の第七条に
念佛は無礙の一道なり。そのいわれいかんとなれば、信心の行者には天神地祇も敬伏し、魔界外道も障礙することなし、罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善も及ぶことなき故に無礙の一道なり。
とさわりのない一筋道、念佛というものは、自然に涅槃の境―世界と直結しておる。だから、われわれは煩悩具足の凡夫だが、そういうもののために如来の本願がある。われらのための如来の本願―われらのため。如来はわれらをかねてより、われらの苦しみを如来はしろしめて、そしてナムアミダ佛を以てわれわれを召喚し呼びかけている。佛さまの方から呼びかけて下さる。本願をもってナムアミダ佛を呼びかけて下さる。だからわれわれは佛さまのおさとりをおのづから感ずることができる。それすなわち禅、禅定―とそうでありますよ。そういう禅定に入らしめられる、おのづから成就する。これつまり如来の廻向、如来のお助け。われわれはその禅定があるから仕事をするときに仕事に専注することができる。仕事にはいろいろあるが、直接に間接に生産―物を生み出す。あるいは物を掘り出すということもある。あるいは作るというても差しつかえない。仕事とは人間だけにできること、ほかの動物は仕事はない。仕事とは人間だけでしょう。仕事の「仕」という字は仕えること―仕える,奉仕する、ささげたてまつるという字である。奉仕するとは、人類の社会に奉仕する。奉仕するとはやはり私どもは天地とか、社会とかいろいろな恵みを受けているから、それに対し、われわれが奉仕するとは正しいことである。だから仕事とは奉仕する事業、社会奉仕の事業―もう一つ掘り下げれば宗教の事業。神さまとか佛さまの恵みによってわれわれ仕事でしょう。だから人間とは生まれてながらにしてみんな宗教というものを持っている、そうなっている。だから宗教心は、生まれながらにして持っておるというてもよいし、持って生まれて来たといってもよいし、また与えられているといってもよい。禅の人は「持っている」親鸞聖人の宗教は「与えられている」これは考え方で、持っていると考える人もあれば、又、与えられていると、感得している人もある。お念佛の人は与えられていると、こう感ずる。教えというものが与えられているというところから教えの立て方ができているのがお念佛の教え―こう考える。
禅とか、念佛とか関係ないもののように考え、自分の方が正しい、相手は不徹底と考えるが、私はそう思わん。やはり両方が相手を敬い、互いに両方を磨き合う。互いに相手の人から磨いてもろうて自分の教えの伝統の精神を明らかにし―二つのいいところを集めて行く人と考える人もあるが、また一長一短あるから悪いところを捨てて良いところを取ると考える人もあるが、私は両方がむやみに妥協せずに、自分の伝統というものを相手の人をもって、相手の人をもって、相手を砥石として磨いてもらう―そう考えている。
(『中道』昭和三八年七月二日・富山月愛苑にて)