※本日、音声の不具合により動画ではなく文章での法話更新とさせて頂きました。ご了承の程お願い申し上げます。
歎異抄・前序
竊かに愚案を回らしてほぼ古今を勘ふるに、先師の口伝の真信に異なることを歎き、後学相続の疑惑有ることを思ふに、幸ひに有縁の知識によらずんば、いかでか易行の一門に入る
ことを得んや。まつたく自見の覚悟をもって他力の宗旨を乱ることなかれ。よって故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留むるところいささかこれをしるす。ひとへに同心行者の不審を散ぜんがためなりと云々。
本日の歎異抄・前序 講義文
続いて、「ほぼ古今を勘うるに」とあります。「古」というのは、親鸞聖人が生きておられたころのことです。そして、親鸞聖人が亡くなって、すでに二十年、三十年にもなろうとしている「今」の時代までをあらあらと考えてみればということです。
そこに出てくるのが、「先師の口伝の真信に異なることを歎き」ということなのです。「先師」とは、今は亡き先生のことです。唯円の師、親鸞聖人のことです。「口伝」とは、口伝えと書いて、直接教えていただいたということです。「信身」は、真実信心です。ここに、師弟の出遇いがあるのです。そして、「異なることを歎き」とは、師の親鸞聖人が教えてくださった真実信心に異なった主張が多く説かれるようになってしまっていることを歎くということです。
(有縁の知識 6頁3行目~6頁10行目)
本日の歎異抄・前序 講義文を受けての法話 銀田 琢也
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
お念仏を頂くとはどういうことであるか。親鸞聖人の頂き方に学んでいかれた後学の唯円は、師(親鸞聖人)の亡き後、頂き方が異なってきていることを歎いたのです。お念仏を頂くことが、いつのまにか自分こそがわかったつもりになって頂き方を乱してしまっていることに唯円は歎いたのでしょう。親鸞聖人の言葉にも「自利格別の心」とあります。一人ひとり別々に浅く信じてる、深く信じてる等いつのまにか自分持ちの信心へと埋没するのです。そしてこれは単なる個人的な自信です。寧ろその自信が個人的なものへと閉鎖させていくのです。正しく「「浅」とは定散自利の心なり」浅ましい問題を提起されます。個人的な自信、自分持ちの信心はそれこそ個人に取っては深いことなのかもしれませんが、しかしそれぞれ異なった主張に分かれ個人的なものへと閉鎖されていくので浅いことなのです。だからこそ親鸞聖人の頂き方に、自らを頂きなおしていく過程こそ、又自らの中に活きた仏教が見出されていく。そこに深い歴史に遡る口伝に帰らされていくのです。「「深」とは利他真実の心なり」。そのこと自体に自らの浅ましさを知らされるところにこそ、深い願いのはたらきに触れさせて頂く大事な意味があります。その深い願いのはらきこそ歎異なのです。ですので歎異抄は自らの浅ましさや閉鎖性を打破する仏教の不思議なはたらきが活きた書物なのです。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏