正信偈唱和
歎異抄を読む-歎異抄講義3月14日月曜日
歎異抄・第一条
一 弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。そのゆえは、罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえにと云々
本日の歎異抄・第一条 講義文
それから「無量光」の「光」は、何を示すかというと、智慧を示すかというと、智慧をさします。智慧というのは、どういうことかというと、真実がわかるのが智慧です。悪智慧や浅智慧とは違います。悪智慧や浅智慧は暗くなります。どうやって人を騙そうかと思う心は、とても暗い心です。それは真の智慧とはいいません。無量光は真の智慧を示します。真の智慧は、明るいのです。本当のことがわかうときに明るくなります。漫画などで、本当のことがわかったときに、ピッカリと電球の絵が画かれたりします。真のことがわかっている人は、明るい顔になる。
真のことを、自分だけがわかっておしまいではなくて、真のことがわからない人に、なんとか真のことがわかってもらえるようにと、手立てを尽くす。そういうのが智慧です。自分だけがわかって満足しているのは、これはやはり悪智慧、浅智慧ということになるのです。自分が本当にわかったら、そのわかった内容を、人にもわかってもらえるように手立てを尽くす、それが真の智慧です。
(無量寿・無量光 14頁19行目~15頁8行目)