正信偈唱和
歎異抄を読む-歎異抄講義4月14日木曜日
歎異抄・第一条
一 弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。そのゆえは、罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえにと云々
本日の歎異抄・第一条 講義文
追いかけて、摂め取って捨てない。それが「摂取不捨の利益」です。また親鸞聖人「弥陀経和讃」の左訓に、「摂」と「取」について、
おさめ とる
ひとたひてなくしてすてぬなり せふはもののにくるをおわえとるなり せふはおさめとる しゆはむかへとる
(摂め取る。一たび取りて永く捨てぬなり。「摂」はものの逃ぐるを追わえ取るなり。「摂」は摂め取る。「取」は迎え取る)とあります。これは、
十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし 摂取して捨てざれば 阿弥陀となづけたてまつる
という和讃の専修寺所蔵の本に書かれています。逃げるものを追いかけていって捕える。それが「摂取不捨」ということである。「なんだ、こんな世の中、生まれてこなければよかった」とか、「佛も法もあるものか」とか、好きだ嫌いだといって、冷たい心、わがままの心、そういう心は、摂め取るという心から逃げているのです。その逃げるものを、「ああ逃げていった」と見捨てるのではなくて、どこまでも追いかけていって捕らえて捕らえなさい、それが「摂取不捨」ということなのです。
(ものの逃ぐるを追わい取る 25頁6行目~26頁2行目)