「私は『独りとして』尊い」
お釈迦さま
表題は、お釈迦さまがお生まれになった時に発したとされるお言葉「天上天下唯我独尊」からいただきました。
この言葉の意味は、「天上にも天下にも、我はただ独りとして尊い」であります。この「独りとして」が、現代日本を生きる私たちにとって大事な意味を持ってくるように思います。
現代は「つながりの時代」であります。通信技術の発展により、外国にいようとも、空の上にいようとも、人とつながり続けている時代です。逆に言えば、常に他者の眼差しや評価にさらされているということでもあります。そして、その評価軸は共同体の中で共有される価値、すなわち私たちが正義や道徳と呼ぶものです(「成果主義」というのも生産を正義とした観念の上にあります)。その基準は共同体の安定という形で私たちの生活を支えている一方で、そこからこぼれ出た人を排除し、社会関係と心の両方に内と外をつくります。これが戦争や差別を起こす大きな要因と言えるでしょう。
私たち人間が「ともに」という時、こういう問題が必ず起こってきます。自分を含むすべての人を「独りとして」尊べないところに、「ともに」尊ぶということは成り立ちません。「ともに」は「独り」から成り立つ世界です。
しかし言うまでもなく、人間は文字通り間柄を生きる存在でありますから独りで生きることはできません。ここに独りとして尊ばれながら共に生きることのできる「国土」を求めます。仏国土です。すべての衆生が念仏のもとに兄弟として尊び合う世界。日本人も外国人もない、男も女も、敵も味方もない、ただ仏願の下に「ともに」命を尊び喜ぶ世界です。
ところが現実には、差別も戦争も派閥争いもなくなりません。むしろその構造の中に自分の居場所を確保しようとするのが人間の根性です。「人間はそういうものだ。理想論を語っても仕方がない」と済ませることもできるでしょう。しかし、真の教えに遇った人はそこでは終われません。本願に背き、「独り」も「ともに」も生きられないこの身の悲しみと深さを、まさに本願に知らされるのです。
本願に我が身の事実を知らされた時、これまで「敵」と見てきた人と、救われようのない煩悩を抱えて生きる兄弟として、そして共に救われ仏となる身として新たに出会っていく私になる。ここに成就するのが「ともに(共・朋・友)」の世界です。
私が「独りとしての尊さ」に目覚める時、仏願としての「ともに」が開かれます。「我ただ独りとして尊し」とは、真の事実を顕す言葉であると同時に、その道を生きんとするお釈迦さまの宣言であるといただき、私もまたその道を歩んでいきたいと思います。
(江戸川本坊 門井良)

