握れば拳、開けば掌
TVドラマ『ルーキーズ』
川藤 幸一
これは、TVドラマ『ルーキーズ』の中で語られた言葉です。荒れてしまった高校の野球部を、教師がもう一度立て直そうとする物語です。
ある場面で、生徒の一人が教師に対して拳を振り上げます。その生徒は、仲間とも距離を置き、教師の言葉にも耳を貸そうとしません。しかし、本当は仲間が嫌いなわけではありません。本当は一緒に野球がしたい。けれども、傷つくことや裏切られることが怖くて、素直になることができないのです。そんな生徒の拳を前にして、教師は言います。
「握れば拳(こぶし)、開けば掌(たなごころ)」
そう言うと、無理やりその拳を開こうとはせず、いつか自分から開いてくれることを信じて待ち続けました。その後、その生徒は野球のユニフォームを着て教師と生徒の前に現れます。
この生徒の姿は、どこか自分自身を見ているような気がします。私もこの生徒と同じく拳が開けない人間だからです。
「どうせ言っても分かってもらえない」
「期待したって、どうせ変わらない」
「別に、自分には関係ない」
そんな言葉を口にしたり考えたりすることがあります。本当は分かってほしいのに「特にありません」と諦めてしまう。助けてほしいのに「大丈夫」と強がってしまう。職場でも、家庭でも、友人との間でも、関係を悪くしたくない、傷つきたくない、自分から頭を下げたくない。そうやって自分を守ろうとするとき、手に力が入り「自分の正しさ」を握りしめています。
ドラマの中で生徒が握っていた拳も、誰かを傷つけるためだけの拳ではなく、自分がこれ以上傷つかないために握らずにはいられなかった拳です。私も同じです。期待して傷つくくらいなら最初から期待しないほうがいい。頼って裏切られるくらいなら自分一人で抱えたほうがいい。自分が正しいと思っていたい。そんな思いから、自分を守るために拳を握ります。
親鸞聖人は『浄土和讃』で
十方微塵世界の
念仏の衆生をみそなわし
摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる
(真宗聖典五八三頁)
と詠まれています。
十方微塵世界とは、数えきれないほど広大な世界のことです。そのすみずみに生きる念仏の衆生を見そなわし、摂め取って決して捨てない。それが阿弥陀さまです。「あなたの握られた拳を開いて救いましょう」という意味ではありません。自分を守るために頑なに手を握りしめている私を、そのまま救うと願ってくださっています。その願いが「南無阿弥陀仏」となって今この私に届いているのです。
そんな阿弥陀さまの願いに出遇ったとき「なんのために私は、こんなにも強く拳を握っていたんだろう」と私自身が問われます。そして「自分が正しい」と握りしめていたものが阿弥陀さまの願いによって破られていくところに、握りしめていた手から少しずつ力が抜けて、「助けて」と言える私になっていくのではないでしょうか。
開かれた二つの掌が合わさったところに合掌の姿が生まれます。その掌を合わせた私の口から、「南無阿弥陀仏」のお念仏が、自然とこぼれ出るのであります。
森林公園昭和浄苑 山岡 恵悟

