正信偈唱和
歎異抄
歎異抄・第四条
一 慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々
本日の歎異抄・第四条 講義文
その八万四千の法門を、大きく二つに分けることができるというので、聖道門と浄土門というわけです。「聖道・浄土」という言葉は、道綽禅師が示してくださいました。仏教には教えはたくさんあるけれども、聖道門と浄土門と大きく二つに分けることができるといういわれたのです。
それで、まず聖道門というのは、浄らかな道を行く聖者のための教えということです。では聖者、浄らかな人というのは、どういう人かというと、欲はなく、驕ることなく、妬むことなく、静かに自分自身を耕し、修行していく人です。そういう人が聖者です。ですから、この聖道門というのは、聖者の道で、厳しい修行を実践し、そして自分の努力精進によって仏になっていく、さとろうとする道です。
ですから、聖者という場合には、肉は食べない、酒は飲まない、異性との交渉はしない。戒律という、厳しい律法をしっかりと身に堅持して、修行していく。家には住まない。一か所に定住しない。行雲流水、行く雲、流れ雲、流れる水のごとく、ところどころ居所を変えて、そして、ものを持つと執着が出てくるから、ものは一切持たない。そして食事は、一軒一軒の家の前に立って、鉢を持って、いただけるものをいただく。それに対して、「こんなものしかくれないのか」というような不平はいわない。乞食の行として、自分自身が仏になる修行していく。そういうのが聖道門です。
(慈悲に聖道・浄土の変わりめあり 99頁12行目~100頁7行目)