歎異抄
歎異抄・第六条
一 専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論の 候ふらんこと、もつてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたず 候ふ。そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候はば こそ、弟子にても候はめ。弥陀の御もよほしにあづかつて念仏申し 候ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼のことなり。つ くべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなるることのある をも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざる ものなりなんどといふこと、不可説なり。如来よりたまはりたる信 心を、わがものがほに、とりかへさんと申すにや。かへすがへすも あるべからざることなり。自然のことわりにあひかなはば、仏恩を もしり、また師の恩をもしるべきなりと云々。
本日の歎異抄・第六条 講義文
では、阿弥陀仏とは、私たちとはまったく別の、神さまみたいなものかというと、決してそうではありません。阿弥陀仏とは、本願という誓いのお心を持っておられて、私たちにも生きているのです。私を生かそう生かそうとしてくださっているのです。このように、自分において阿弥陀仏のはたらきを見出していくことが、親鸞聖人の教えの特徴です。阿弥陀仏がはたらいてくださっているとするならば、相手に手をあげるよりも、相手を撫でたほうがいいのではないですか。阿弥陀仏のはたらきの中に私たちはいるのであり、私たちの心に阿弥陀仏がはたらいているというように、外にも内にもはたらいているということです。これを一切衆生悉有仏性といいます。生きとし生きるものは、すべて仏の性を持って生きているのだということです。親鸞聖人の『教行信証』も、仏性という言葉がなければ成立しません。仏性ということをもって、阿弥陀仏の本願のお心を親鸞聖人は説いておられます。一切衆生悉有仏性、およそ心あるものは、ことごとく成仏するというように、『涅槃経』に説かれています。
(仏恩をしる 170頁後5行目~171頁4行目)