歎異抄
歎異抄・第七条
一 念仏者は、無碍の一道なり。そのいわれいかんとならば、信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆえに、無碍の一道なりと云々
本日の歎異抄・第七条 講義文
みなさんは惑われるかもしれませんが、もう一つの解釈も紹介しておきましょう。「念仏者は」というのを「念仏する者は」と、字のとおりに読むことができるのだという意見もあります。念仏する人は、無碍の一道なりと読むことができるという、これが二つ目の意見です。「念仏する人は」と解釈すると、困ってくるのが、次の「無碍の一道なり」というところです。どういうことかというと、念仏者が道であるということになってしまうからです。ですから、このように読もうとすると、理屈をつけないといけないわけです。それでは、どのように理屈をつけるのかといいますと、「人は道なり」、人が行くところに道ができる。人の生き方が道になるのだから、人は道なりといえるのではないかといわれるのです。
先ほどいいましたように、「念仏は道だ」というのであれば、念仏はお浄土へと導いてくださる、さとりへと導いてくださる道だというように、頷けるわけです。ところが、「念仏する人は道だ」という説の場合には、人と道をどのように結びつけるのかというところに難儀するわけです。
ここでは、「念仏は」と読んで、話を進めていきたいと思うわけです。
(念仏者はの二つの解釈 174頁4行目~174頁後2行目)